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98年製 [巷の雑感・時の想い]

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もう随分前のこと。
リビングに置いてあるテレビが壊れた。購入してからかなり経ったものだったので、まあ壊れてもしかたないか、と諦めた。私はあまりテレビを見る方ではないが、それでもリビングにテレビが無いと家族が困るだろう、と思い、会社の物置に転がっていた古い小さなテレビを、仕事の合間に自宅に持って行った。
テレビを接続して、さて会社に戻ろうとすると、当時小学1年生の息子がちょうど帰って来た。「ただいまー」と言ってリビングに入って来た息子は、そのテレビの変わり様に驚いたような表情で立ちすくんだ。「テレビ壊れたんだ。しばらくこれで我慢してくれ」と言って、急いで会社に戻ろうとする私。返事が無いので、ふと振り返って見ると、息子はそのテレビの前で微動だにせず立ち続けている。これ以上ない暗い表情なのだが、キッと結んだ口からは何の言葉も出てこない。一瞬時間が止まったかのように凍りついたリビングの二人。そして、まるでスローモーションを見るように、息子の瞳から一滴、床に落ちた。
ハッと自分の胸に突き刺さった物を感じた私は、脱兎のごとく会社に戻った。そして、直ぐに取引先の業者に電話し、「直ぐにテレビを持って来てくれ。一番大きなヤツを自宅に!」と。私はうかつだった。あの時息子が、非難や恨みの言葉の一つでも吐いてくれたら、それに気付くのがもう少し遅かったかもしれない。家長として、父親として、役目を果たしていないと思った。経済的に困窮していて、テレビを買えないのなら、別の対処法もあったろう。でも、当時そうではない。テレビなんて、と軽く考えていた自分に、何だか恥ずかしさを感じた。
現在、テレビの無い家は殆どないと思う。いや、一人に一台が当たり前になってきているのだろうか。それでもリビングのテレビは、団欒の一員になったりする。家族みんなの目が注がれ、時に指をさして笑われ、時に感動で涙を誘う画を運んでくれたりする。今か今かと期待を込めて見られることもあるだろうし、寝転がりながら見ていて、つい寝てしまったこともある。テレビが情報源として、娯楽の源として、唯一絶対では無くなった今では、家庭での立ち位置も随分変わって来たのだろう。家族全員の視線を集めるような時間は、以前ほど多くはないのかもしれないが、リビングに欠くべからざるものとしての存在は、今も昔も変わらないと思う。
そうして、このテレビがやって来て12年。時が経ち、家族が育ち、あの息子も今は、この家にいない。そして、この手垢と埃でうっすら汚れた姿も、世のデジタル化で天寿を全うする前に、間もなく我が家から居なくなる。この大きく重いブラウン管テレビ。去り逝く前に、少し綺麗に拭いてやろうかな、と思っている。

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wataru-wata

こんにちは。

地上デジタル化で、使えるテレビを処分しないといけない。なんて「持った無い」事なんだろうと感じております。しかしながら、かくいう我が家も昨年のエコポイント全盛時代に、ブラウン管からプラズマに買い換えました。それによって得られた恩恵は多々ありますが、やはり完動しているテレビが引き取られていく姿は寂しかったです。そして、重く威圧感のあったブラウン管から薄型へと時代の流れを痛感しました。

ただ、娘にとっては壁掛けテレビが最初のテレビ。この娘が子供を持つであろう年には、どんなテレビになっているんだろぉ?と、テレビに夢中になる娘を見ながら楽しみに感じています。
by wataru-wata (2010-09-28 11:31) 

ジュニアユース

wataru-wataさん、こんにちは。
重さで価値が変わるわけではありませんが、今振り返ってみると、ブラウン管テレビって、重かったですね。買った時も、
引っ越しの時も苦労しました。重くて、そう簡単に動かせない、ということもあって、ずっとリビングの住人だった訳ですが、
去りゆく際にふっと買った時のことを思い出して、こんな記事を書いてしまいました。物を擬人化するのは好きではない
ですが、たぶん新たな持ち主の元に行くのではなく、解体されるのだろうと考えると・・・。


by ジュニアユース (2010-09-29 18:30)