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「鉄道員(ぽっぽや)」 後編 [本・映画・アニメ・詩歌]

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この春から廃線が決まった北海道のローカル線、その終着駅・幌舞駅の駅長、佐藤乙松の最後の一日と、彼に訪れた奇跡を、この物語は描いています。廃線と同時に自らも定年退職となることが決まっていた彼は、かつては炭鉱と共に賑わっていた街と駅と共に、ただひたすら一途に鉄道員として生きてきました。晩婚の末やっと設けた一人娘も、そしてその妻も病で失い、しかも鉄道員としての仕事を捨てられず、その最期を看取ってやることもできなかった、孤独で不器用な男として、雪深い駅舎で正月を迎えます。自分の定年までこの廃線を先延ばしてくれた仲間や同僚に感謝しつつも、頑な故に失ったものを思えば、自らの半生が誇れるようなものではなかったと自責し続けます。心配して訪れた同僚に再就職先を勧められても、その息子から電話をもらっても、鉄道員として生き、そしてこの路線と共に朽ちていく道を選ぶ気持ちに揺らぎはありません。それが唯一の、失ってしまったものへの報いだと信じているのです。彼は、次の未来へ目を向ける資格は自分には無いと、鉄道員を捨てて器用に生きる資格は無いと、思い込んでいます。そんな彼に、奇跡が訪れます。奇跡とは、滅多に起こらないこと。その起こるべきはずのないことが、彼に訪れます、まるでご褒美のように。そしてその事に気付いた時に、懺悔し、涙し、重くのし掛かっていた肩の荷が全て失うと同時に、彼もまた天へ旅立っていきます。最後まで、鉄道員(ぽっぽや)として。

私のつたない文章で、僭越ながらあらすじを書かせていただきました。僅か40ページの短編小説です。何度か読みました。そして私、読む度に泣きました。なぜ泣けるのでしょう。もちろん、作者である浅田次郎氏の卓越した文章力によることでしょう。でも、こんな奇跡、まず起こりえない奇跡の話を読んで泣いてしまうなんて、心のどこかに「こんな奇跡があって本当に良かった」と思える自分があるからだと思います。悲しくて泣くのではありません。行間に波打つこの主人公の立場や考えが、読み手の心の奥底に重く横たわり、それに対して一筋の光が、最後の最後に一瞬だけ煌めいたから、泣けるのです。たぶん若い方、40歳未満の方には良く分からないかもしれません。でも私のように、自分の半生を振り返れる歳になった方ほど、この主人公の立ち位置や想い(それは生き様と言ってよいでしょう)に感情移入でき、故にこの言いようも無い、悲しくも淋しくも、でも良かったと思える感情の隆盛が、涙となるのだと思います。
浅田次郎氏は「平成の泣かせ屋」との異名があるそうです。氏の作品にはそんな物語が確かに多いですし(全部読んだわけではないですが)、この「鉄道員(ぽっぽや)」の中の他作品でも、同様に泣ける話がいくつかあります。ただ、人によって捉え方は様々です。「直木賞受賞作を読んで感動しないなんて」と否定的に見るつもりは、私には毛頭ありません。前回も書きましたが、小説はそんなものだと思うからです。ただ、もし読まれるのならば、通勤途上のバスや電車の中ではなく、一人静かに読んでいただけたら、と推すに留めます。もしもの時、人前では思いっきり泣けないでしょうから。
10年以上の間、私の本棚の片隅に、この文庫本はひっそりと、でも存在感を持って鎮座しています。今では少し色褪せた表紙と、黄ばんだ紙束になってしまいました。手を伸ばそうとすると、また泣いてしまうから、と引っ込めてしまいます。たぶん誰にもそんな、忘れられない物語はあるでしょう。長編を読破できるほどの忍耐力の無い私には、今でもこの本が何よりの宝物です。





最後に、映画版「鉄道員(ぽっぽや)」について一言。本来凝縮された短編物語に、他のシーンを詰め込み過ぎて間延びしている点が惜しいのと、主人公の佐藤乙松を演じる高倉健さんは、かっこ良過ぎです。不器用に一途に生きる男を演じさせたらピカイチの彼ですが、原作読者の私としては、もう少し枯れた感じの方が原作に近く、より哀切に富むように思えました。でも、最後に流れる主題歌(坂本龍一作曲)は、この物語に合った、実に素敵なメロディだと思いました。雪深い北海道の、さびれたホームに凛と立つ一人の鉄道員、その光景を浮かべながら聞いてみてください。









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