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十月の風 [物語]

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その時、オレは疲れていた。だいたいサービス業というのは、万年人手不足だ。景気の良い時には、もっと割りの良い仕事がいくらでも見つかるし、景気の悪い時には、余暇や趣味にかけるお金を節約するので、この業界も人件費を渋る。日曜日も祝日も、お盆も年末年始も休めず、勤務時間も不規則なこんな仕事に、人は好んで集まらない。その日も、18時間の夜間勤務からやっと解放されたのは、早朝6時。とにかくここから去りたくて仕方なく、重い体を引きずって会社を出た。空腹感は特に無く、さりとて今から一人住まいの部屋に戻ったとて、食べるものは皆無。ただシャワーを浴びて寝たかった。その後またここに戻って来なくてはならないのだから。
コンビニが巷に溢れるずっと前の話だ。朝6時に開いている店など限られている。思いついたのは、帰路に有るドーナツのチェーン店。あそこは確かこの時間でも開いていたはずだと思い、立ち寄った。東京の環八沿いにあるその店に客影は無く、朝らしいBGMが流れていた。熱いコーヒーと甘いドーナツ。甘いものが特に嫌いではないオレだが、それでも美味いとかぶりつく元気は無く、ゆっくりと喉を通した。ただ、寝る前に少し腹を満たしておく必要を感じただけ。用が済めば明るい色の制服を着た店員に支払い、「ありがとうございました」の声を背に、傍らに置いたヘルメットを手に自動ドアを出た。
その頃オレはバイクに乗っていた。1980年代はバイクブームだった、と将来振り返られる頃、そんなブームに乗せられた訳でもないのだが、社会人一年生のオレは、何だか毎日が虚無に感じて、特に強い動機も無く免許を取りに行った。ナナハンといわれる大型車に乗るなど、端から眼中に無く、そんな高価なバイクを買える余裕も無く、中型自動二輪というやつだ。免許は簡単に取れたが、取ってしまうとバイクが欲しくなる。これもまた通勤途上にある小奇麗なバイクショップを覗いてみたくなったのは、社会人二年目になる頃だっただろうか。比較的大型のその店には、各社のバイクが展示されていた。HONDA VT250F でも、と思って入った。2ストロークエンジンは好みではなく、車検が無くて維持費が安く、高速道路も走れる250ccクラスで十分な気がしたから。ところが、その店の奥が中古車の展示場になっていて、そこに踏み入れたら「YAMAHA FZ400R」を見つけてしまった。まだナンバーが付いて半年ほどの中古車。エンジンを掛けてもらえば、4into1のマフラーから放たれる野太いアイドリング音が、既に高性能を誇示していた。瞬時に魅了されたオレは、技量に合わないバイクを愛機としてしまった。
乗るだけなら、走らせるだけなら、初心者のオレにもできた。でもそれは快適ではなかった。フロント16インチ、リア18インチを採用する足回りは路面の凹凸を確実に伝えるほど固く、端からタンデムなど考えられていないそのシートは、申し訳程度しかクッション性は無く、ギアは硬質感むき出しで、強い前傾姿勢を要求される。街中をダラ~っと流すと常にアンダーステアで、当初は後悔もした。しかし、会社の後輩(アルバイトの大学生)が 「HONDA CBR400F」を手に入れてから一変。当時のTT-F3用のベースモデルを手にしてしまった初心者同士、その性能を少しでも味わうために、暇を見つけては二人で峠に行った。群れるのは好きではない。もちろん硬派な走り屋になるつもりもなく、その意味では軟派なバイク乗りには違いなく、ただ少しでもバイクの楽しさが分かれば、二人ともそれで満足だった。そうしてワインディングロードに踏み込むと、このFZの意味が少しは分かった。強い前傾姿勢を強いる低いハンドル位置はハングオンの容易さの為であり、エンジン回転をキッチリ合わせての素早いシフトアップ&シフトダウンでは小気味よく決まるシフト。そして何より、キチンと体重移動すればアンダーなど出ず、実にシャープなハンドリングをもたらしてくれる。僚機であるCBRと交換して乗ったことがあったが、FZに比べればCBRは遥かに乗りやすくて乗用車的。FZはより尖った硬派で、相棒はそれ以後二度と交換しようとは言わなかった。

大田区に住んでいた部屋から仕事場までは、バイクで30分ほど。雨が振る予報が無く、途中で他所に寄る予定が無ければ、バイクで通勤することが多かった。もっとも、ヘルメットを被り、停まってしまえばストーブを抱かえているようなものだから、真夏は遠慮した。汗臭い体はサービス業にはNGなので。そして何よりバスの時間を気にせず、早朝6時に仕事から解放されても、直ぐに帰路につくことができるのは助かる。如何に若いからといって、深夜の連続勤務は生身に応える。季節が移り、ホットコーヒーからアイスコーヒーに代わったが、いつもの店のカウンターに座り、いつものように肩肘をついてドーナツを一口。その時、頭上から柔らかな声が振ってきた。
「いつも疲れているみたいね。仕事帰り?」
その時、店に客はオレ一人しか居ない。フッと顔を上げれば、定められた帽子の中に髪を束ねた、20歳前後の女の子が声の主だった。明らかに営業トークではないことは分かったが、何回か来ているのに、その店員の顔をマジマジと見るのは初めてだった。一瞬後にオレは、「エッ?」と言ったような気がしたが、夜勤をこなしての帰り道だということを、まるで言い訳のように話したことを憶えている。その間彼女は、特に笑顔は無く、じっと聞いていた。店を出る時に立ち上がったオレは、実は彼女が小柄だということに、初めて気づいた。オレの背中に掛けられた「ありがとうございました」の声が、いつもとちょっと違う感じに聞こえたのは、きっとオレが寝ぼけていたせいに違いない。

「あなたがFZに乗っていたから声をかけたの。VTなら話さなかったわ」
何度目かに会った時、彼女にそう言われてゾクっとしたことを、そう言われて返す言葉に迷ったことを憶えている。バイクショップのクラブに所属している事、TZ250に乗って筑波サーキットを走っている事、そこで転んで怪我をした事、そんな話を彼女から聞いた。つまりは軟派なバイク乗りのオレなどより、彼女はずっと上級者で硬派。決してお金持ちのボンボンが趣味の一つとしてFZに乗っているような身分ではないのだが、かといってFZに見合うような腕も心意気も無いのは確か。強がってみせても歯が立たない事は分かっていたので、かえってありのままに素直に話せたのは、ちょっと意気地が無いことかもしれない。
「タイヤの縁じゃなく、真ん中ばかり減らしているんじゃないでしょうね」
今日もいつものように注文すると、そんな言葉が返ってきた。上から目線で言う彼女に、返す言葉も無く苦笑。年長者の男としては恥ずかしいことなのだろうが、何故か不快とは反対の気分でいられた。疲れた体を引きずって帰る途中の、僅か数十分の楽しみと言えば、確かにそうだった。ただ暫くして気付いたのは、そうして営業トークから離れて話す彼女には、どこか影が有り、談笑という雰囲気にはならなかったこと。オレと話す彼女との間にはカウンターがあり、それはいつまでも無くならないような気がしていた。

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早朝というより、まだ夜の部類の午前4時。東京都狛江市にある相棒の部屋で落ち合う。そのまま第三京浜を使って南下、箱根に向かう。8月は仕事が忙しく、また峠も混んでいるので行く気にもならず、9月に入って奥多摩に行った時にも、オレ達には肩身が狭かった。10月に入ればもう良いだろう、と相棒と休みを合わせた。FZのハーフフェアリングを切る風は、もう冷たい。淡々とした直線に近い道程をこなせば、何とか熱海で日の出を迎えられた。さて、これからが本領。椿ラインを登る。箱根ターンパイクも行ったが、中速から高速コーナーが多くて、流して走るには良くても、初心者には楽しめない。その点この椿ラインは、中低速コーナーが多くて、思いっきりエンジンを回したいオレ達初心者には向いていると思えた。グイッとスロットルを捻れば、10000回転以上楽々と回るFZのインライン4が歓喜を奏でる。しかしまずは1本目、流して様子を見る。今日は相棒が先行、後追いがオレだ。まだ緑が残るワインディングロードを、左右に振りながら駆け上がる。ここに来たのは3度目なので、多少は勝手が分かるが、油断は禁物。ライダーのミスに寛容ではないFZだから。
その時、アライのヘルメット越しに甲高い2ストロークエンジンの音が聞こえ始めた。後ろから来る。その差をドンドン縮めて来る。バイクは四輪に比べて、ずっと乗り手の力量差が出る乗り物だ。いくら流して走っているとはいえ、オレ達よりもずっと速いとは、かなりの手練れであることは間違いない。ここは、初心者は道を譲るべきだな、と思った刹那、アウトからあっけなく抜かれた。チャンバーを替えた「YAMAHA RZ250RR」だ。そのスピードはそのままで、前を行く相棒のインをズバッと差す。相棒は気付くのが遅れたのか、一瞬不安定になりコースアウトしそうになる。
「やったな!」
オレは持てる勇気を絞り出して、FZのスロットルを締め上げた。抜いた相手が転んだかどうか確かめる為に振り向いたRZに比べれば、横目で転ばずに立ち直った相棒を確認できたオレの方が、シフトアップが早かった。若干上りの右中速コーナーに向かうRZのすぐ後方にFZを付けることに成功した。次は左の低速コーナー、RZはシフトダウンが早い。この最大減速Gを素早く得るブレーキングが、オレとの最大の違い。そしてバンクに移行する一瞬の動作も、シャープで無駄が無い。なので、理想的なラインで立ち上がり、速い。そのラインをトレースして追うオレ。見通しの良いコーナーでは思い切ったアウトインアウトをとるが、ブラインドコーナーでは決して対向車線にはみ出ることなく、文句の付けようの無いライン取り。それでいて小柄ながら体重移動は機敏で、細い腰がオレの目の前を踊るように左右する。彼女が引いたラインをトレースし、彼女が示したポイントで減速を開始すれば、彼女と同じような速さで立ち上がれる。その間、幾つのコーナーをこなした事だろう。まるで、レーシングスクールの教官の後を追っているようだと思った。しかし、ここはスクールではない。それに慣れてきた時、ちょっとだけ意気地が湧いた。左中速コーナーを抜けた後、僅かに下って右のヘアピン。思い切ってブレーキングを遅らせて、RZのインにFZのフロントを捻じ込ませる事に成功した。バリアブルダンパーを装備したフロントフォークは、フルボトムこそ避けてくれたが、そのまま一気にFZをバンクさせたために、モノクロスサスペンションのリアが素早くスライド。このまま転倒、が頭をよぎった。しかし、左ステップを思いっきり蹴り上げて、僅かに車体起こすことに成功したオレは、そのままリアに体重を移してスライドを終わらせると、一気にスロットルを開ける。オレが転倒することに備えたRZは、クリップポイントに付けず、FZのオレを前に出してしまった。次は僅かに上ってブラインドの左中速コーナー。岩肌がむき出しのイン側にハングオン。ヘルメットの数十センチ先に岩肌が迫るが、ここは踏ん張ってインベタで回る。直ぐ後ろに2ストのエンジン音が迫る。それを抜ければ、次は短い直線の後の右低速コーナー。ここは若干の下りだが、2から3速へ13000rpmでシフトアップ後に再度シフトダウン。エンブレが効く4ストロークのFZの方が、2ストのRZより有利なはずだが、軽量なRZはアベレージスピードが高いだろう。ライン取りが容易な彼女がインを狙っているのは承知。RZの位置取りを背後の排気音で感じながら、インを突かれないように、今度は慎重にフルバンクに持ち込む。そして前に視界が開けたら、リアをスライドさせることなくニーグリップでFZを押さえ込みスロットON。遠心力をアウトに膨らみながらいなすと、10000rpmを超えたFZのインライン4が吠える。次の左コーナーをFZのフェアリング越しに睨む。
だがそこで、オレの蛮勇が尽きてしまった。開けたインを易々と突いた彼女は、そのまま理想的なラインで立ち上がって行く。オレもまた、そのラインに続く。そのまま暫し、また教習走行が続くのかと思えば、彼女はその先の駐車スペースにRZを停めた。数メートル離れた所に停めたオレ。僚機であるかのごとく、それ以上近くに停めることには憚られた。今日オレ達が、この時間にここへ来ることを知っている唯一の人が、RZに乗ったままヘルメットを脱いだ時、彼女の髪がフワッと風になびき、朝日で金色に輝いた。
「なぜ抜かせた!?」
同じくFZに乗ったままヘルメットを脱いだオレに、まず浴びせられた厳しい問いただす声。ドーナツ店では決して見せない、険しい眼だった。あそこで譲らなくても、技量差からいって、その先のどこかで抜かれていたことは間違いないことなのに、どうやら彼女の自尊心を傷つけてしまったようだ。RZにまたがったまま、横を向いてオレを射抜くような眼差し。それに向かって、一呼吸してから、オレも真っ直ぐに見て言った。
「だって前を走ったら、キミのかわいいお尻が見れないじゃないか」
そう言った後で微笑んだつもりだったが、実際はそうでなかったかもしれない。予想外の答えだったのだろう。一瞬恥じらいを見せたような気もしたが、それを瞬殺した彼女は、また元の表情に無理やり戻して言った。
「バッカじゃないの!」
それだけ言うと、彼女は視線をオレから外して、まっすぐ前を向いてしまった。言ったオレも、実は次の言葉が見つからない。暫しの沈黙の間。エンジンを切った2台の周りには、10月の朝の凛とした静寂が有った。なぜ彼女がここに来たのか、そんな質問の言葉さえ出せなかったことが、彼女とオレとの実際の距離だったのかもしれない。オレはただ黙って待った。1分にも満たないであろうそれは、後に貴重と思える沈黙の終焉は、彼女によって下ろされた。再度オレに向き直った彼女は、肩越しに何か言おうとした。オレは彼女の言葉を待った。彼女をしっかり見て、待った。しかし、その言葉はついに発せられなかった。おもむろにヘルメットに手を伸ばして彼女は言った。
「あんな乗り方していると、いつか転ぶわよ」
言いたかったのはそれではないだろう、と思いつつも、「ああ、そうだね」とだけ言ったオレ。彼女の眼から最初の厳しさが消え、何か優しいような寂しいような、そんな憂える感じが窺い知れたのは、オレの気のせいだったのだろうか。
「仲間が待っているから」
とだけ小さく言って、バイザーを下した彼女は、高らかに2ストロークエンジンを鳴かせて、風のようにススキの穂の向こう側に消えていった。





彼女の言葉は、一カ月も経たずして現実のものとなる。いつもの相棒と山中湖へ向かう途中、何でもないコーナーで転んでしまった。スローモーションのようにアスファルトが眼前に近づくと、そのまま冷たく固い大地に半身のまま打ち付けられ、滑っていった。しっかり握っていたはずの愛機が離れていくのが悲しく感じた。幸いにも体の怪我は大したことが無く、左の腰から太腿にかけて醜いアザができたぐらいだったが、愛機の方はそれ以上だった。ステップは曲り、カウルにはヒビが入った。それに加えて、ラジエター付近のパーツに亀裂が入り、冷却水が漏れていた。たまたま通りかかったライダーに近くのバイクショップを教えてもらい、応急処置を施して、何とか騙しだまし帰宅できたものの、暫くベッドから起きる度に感じる痛みと共に、気分は落ち込んだままだった。単独事故で良かった、この程度の怪我でよかった、でも何の罪も無い愛車を傷つけてしまった、そんな思いが堂々巡りをした果てに、彼女の事に思い至った。「ほら、言ったとおりでしょ」とでも言われれば、少しは気分も晴れるか、と思って、久しぶりに店に行ってみた。しかしそこに、彼女の姿は無かった。中年の店長らしい男性が一人、ダルそうに早朝の店を営業していた。
「ああ、彼女なら辞めたよ」
無表情に答えた後、どういう関係なの?という眼を向けられたが、声に出して聞かれたわけでもなかったので、オレもそれ以上の言葉を続けなかった。振り返ってみれば、オレと彼女とを繋ぐのは、この店しか無かったこと、それに今更ながら気が付いた。彼女の電話番号も住所も知らない。もっと冷静に考えてみれば実は、バイクという共通の話題がある客と店員の関係でしかなかった、ということだ。そんな希薄な関係ならば、この世に幾らでも有るし、オレにだって有った。きっと彼女にも有るだろう。これで、この話は終わって良いと思った。でも、フッと思い出してしまった、彼女が通っていたバイクショップの名前を。電話帳でその店を調べてみると、ウチからそう遠くはない。傷付いたFZに、「もう少しだけ付き合ってくれよな」とセルを回した。

第二京浜沿いに有るその店にたどり着いたのは、夕方だった。オイルの匂いがした。このFZを買ったような立派なバイクショップとは正反対の、小さくて、如何にも昔からやっているバイク屋という感じがする店、修理中と思われるバイクと部品の散乱した、そんな古い店だった。平日だったからだろう、客は誰もいない。オレが来た事に気付いたのは、店主と思われる日焼けした顔の中年男性一人だけだった。
「修理かい?」
オレのFZを一目見てそういった店主に、「ええ」とだけ答えた。FZは転ぶとココをやられるんだよね、と呟きながら見てくれていた。その背中に、オレは一番大事なことを尋ねた。
「いたよ。ウチのクラブに入っていた」
答えが過去形になっていることに、もちろん気付いた。予想し得た事でもあったはずだった。けれど、オレはそれ以上の言葉が出ずに、背中を向ける店主を見つめながら、ただ次の言葉を期待した。意外とも思える時間が流れた後に、ゆっくりと次が聞こえた。
「引っ越したんだ、彼女は」
真偽は分からない。オレに背を向けたまま、店主はそれだけを言った。オレには、もうそれ以上は聞くな、そう店主の背中に書かれているように見えた。オレにしたって、これ以上彼女を詮索する権利も責任も無い事には気付いていた。もうこれだけで充分、そんな気持ちが過ぎった。
「で、このFZをどうする? 車検も残り少ないし、直して乗るか、それとも・・・」
潮時だと思った。いつもの相棒は、FZが直ったらまた行きましょう、と言ってくれていたが、オレは後者の選択をすることを、その店主に告げた。いろんな峠に行き、随分と楽しい想い出を貰った愛車だけれど、今ここで別れるのが一番のような気がした。少なくとも、買ったバイクショップではなく、この店で次のオーナーに手渡すのが、このFZにとって幸せであるような気がした。簡単な手続きの話の後、このままFZを置いて帰る、と店主に告げた。
「歩いて帰るのかい?」
「ええ、一時間も歩けば帰れるでしょう」
一時間では着きそうもないことは分かっていたが、そう言うと、店主は黙って店の隅の傘立てを指さした。その時初めて、雨が降っていることに気付いた。音も無く、霧雨がアスファルトの路面を濡らしていた。傘立てのビニール傘を借りて、オレは店を出た。

夕暮れの中、ゆっくりと第二京浜沿いの歩道を歩いた。本当は往来する車の音で喧噪なはずなのに、その時のオレの耳には届かなかった。傘に落ちる雨音さえ聞こえない、随分と静かな中をひたすら歩いた。一度だけ、信号で止まった時に振り返った。あのバイク屋の看板の灯りが、霧雨の先に薄らいで見えた。ドーナツ店の店主、バイク屋の店主、二人の前から何かしらの理由で彼女が姿を消したことは分かった。そしてそれが、決して喜ばしい門出ではない事も窺い知れた。でも、だからどうだというのだ。今のオレが成すべき事、しなければならない事は無い。人はそれぞれの人生を、それぞれの考えで歩んで行く旅人。その道が、時に交差することがある。でも、交差するということは、別れていくということと同義なのだ。あの日、あの峠で、確かに彼女は何か言おうとした。けれど、言わなかった。言わずに風のように去っていった。きっと、言わない事が彼女の意志だったのだろう。ならばオレも、ここで終わりにしようと思う。
いつの間にか、信号は青になっていた。濡れた横断歩道を進んだ。まっすぐ前を見て。

10月の風3.jpg


よどみない浮世の流れ
飛び込めぬ弱さ責めつつ
けれど傷つく
心を持ち続けたい








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kin_gyo

こんばんは、ジュニアユースさん。
「夏の少女」以来?の長編大作をワクワクしながら読ませていただきました。
自分は発売直後のHONDA CBR400Fに乗っていて峠で遊んでいましたから、場景が良くわかります。
でも、こんな物悲しい出会いはなかったですね。
by kin_gyo (2015-10-04 19:06) 

トシ

いつも楽しみに拝見してます。
今回も、長い!と思いましたが、一気に読んでしまいました。
こういった長文を書けること自体が凄い事だと思います。
最後の曲は、ユーミンのアルバム、時のないホテル、の最後の曲ですよね。
文面にしみる選曲も素晴らしい!
by トシ (2015-10-05 15:25) 

ジュニアユース

コメントありがとうございます。

kin_gyoさん、こんにちは。
CBR400Fに乗られていたのですか、奇遇です。
あの頃は、もちろん暴走族もいましたが、バイク乗りには楽しい時期でしたよね。
FZ手放してから何年かして、もう一度乗りたい病が、しばらく治りませんでした。
不思議と、アメリカンやモトクロスには興味が無かったですねぇ。

トシさん、こんにちは。
「水の影」は確かに、「時のないホテル」の最終曲です。詩の文字数が少ないのに、印象的な曲で好きでした。
毎回、このような記事には曲を付けるのですが、不思議とすんなり決まります。
ホントはユーミン自身が最後まで歌う動画を探したのですが、見つかりませんでした。
シモンズは優しすぎますね。

by ジュニアユース (2015-10-05 23:37) 

wataru-wata

ジュニアユース様、こんにちは☆

実は少し前に大型バイクの免許を取得した私でございます♪

カワサキの逆輸入やホンダ CBR1000RRの逆輸入等に乗りたくて免許取得したのですが、現実は買えておりません(><)

家族を持ち、会社での事等を考慮するとバイクには乗れなかったです・・・。

ごめんなさい、バイクって言葉だけに反応して書き込みをしてしまいました(汗)
by wataru-wata (2015-10-06 10:56) 

ジュニアユース

wataru-wataさん、こんにちは。
大型免許を取られたのですか。それはそれは、乗りたくなることでしょう。
私は今も、大型にはまったく興味ないのですが、バイク乗りたい病は持ってます。
けど、このメタボの体を何とかしないと、スポーツ系バイクには乗れないですよね。

by ジュニアユース (2015-10-07 22:09)