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春のアイス [物語]

授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。サッサとカバンに荷物を詰めて立ち上がるのは、クラスの半分程だろうか。彼ら、彼女達は一様に、学校指定のカバンの他にバックを持ち、その中には部活動の用意が入っている。授業が終わればそれぞれが、体育系の活動の場に移動して行く。そうではない者たちは、今日の小難しい授業から開放されたひと時を、雑談で埋めている。「ところで考えてくれた?」と横から声を掛けられた。隣の席の小柄なクラスメイトは天体観測部に所属していて、ここには高校にしては珍しい天体望遠鏡が有ったので、時々夜を徹して部活動をするのだ。といっても、そんな公明正大な理由の下で学校に泊まり、自炊したり雑談を楽しむのが主ではあることは、誰もが知っていることだが。「春休みに入った最初の土曜日だから」と念を押してきたが、曖昧な返事をしていると、「じゃあさ~」と眼のギョロッとした奴が教室の向こう側から歩み寄ってきて、「じゃあ、ウチの春休みの旅行に行かないか?」。彼は鉄道研究会で、様々な鉄道を乗り継いでは、当時やっと手の届く価格になった一眼レフカメラで写真を撮って廻る、その旅への誘いだった。予算を浮かすために車中泊が多かったようだが、それもまた楽しいらしい。そんな雑多な話やら誘いやらで暫しの時間を過ごしたら、人影少なくなった教室に見切りをつけて、駅へと歩き始めた。
身を切る寒さは、もうすっかり遠のいていた。一人で帰校するなんて、今まではまず無かったことだけど、このところ暫く続いている。校門から駅までは直ぐだし、電車に乗っても10分程。いつもは薄暗くなって街明りが瞬く車窓がこんなにも明るく見えるのは、日の短い冬が終わったせいだけではないだろう。それが証拠に駅のホームに降り立てば、いつも見かける帰宅を急ぐサラリーマンの姿は無い。取り立てて急ぐ必要も無い、そんなちっぽけな余裕が、実は新鮮だった。塾へでも急ぐのであろう同年代の一団を見送った後、広々と空いた階段をゆっくりと降り始めた。その時だった。視界の隅に、同じ高校の制服が入ってきた。階段の片面に付けられた手すりを持って、一段一段ゆっくりと降りるその足首には、痛々しい包帯が巻かれていた。その後ろ姿には見覚えがあった。躊躇の気持ちが起こらなかったのは、今思えば不思議なのだが、引き寄せられるように歩み寄った。驚かせるつもりは無いのだが、スッと背後から片手に持った彼女のカバンを持ち上げた時、振り返って見つめられた瞳は、痛みからか口惜しさからか、うっすら涙目だったと思う。もう10年以上前から知っているのに、彼女のそんな顔など初めて見た。いや、そんな顔など他人には絶対見せない彼女だったはず。気の強さは人一倍、負けず嫌いな性格は誰にも負けない、そんな彼女の怯える子犬のような表情。とっさに視線を下に向けた彼女。でも、その理由は察しられた。彼女と自分のカバンを片手に持ち替えて、彼女の前に出て、かがんで背を向けた。「エッ」という短な声が聞こえた。「いいよ、そんな」という小さな声も聞こえた。「いいから。モタモタしていると、かえって目立つよ」と言った後、一瞬のとまどいの間の後、背中に彼女を感じた。意外にも軽い、と思った。彼女を背負ったままスタスタと階段を降り、改札口を抜けると、「ここに居て、自転車を取って来るから」とだけ言って、駅の高架下まで走った。その自転車と共に戻ってみると、二つのカバンを抱かえた彼女が、寂しげに立っていた。
足首の包帯は、医者で巻かれたものではないと思った。たぶん学校の医務室で処置してもらったのだろう。いつもは部活動の練習に出ている時間なのに此処に居るということは、学校で怪我をして、部活動を休み、これから病院へ行く、といったところだろう。怪我の理由は分からない。でも、あと一か月後に始まるインターハイの県予選を前にして、こんな怪我をして練習を休まなければならない、部活動に心血を注ぐ彼女の口惜しさは理解できた。だから、前カゴに二つのカバンを入れ、後ろに彼女を乗せて進み出した後も、掛ける言葉に迷った。うつむいたまま、無言のままの彼女。きっと恥ずかしさもあったろうから、駅前の小さな商店街は急いで抜けた。人通りが少なくなった道程で、でもなあ~、と思ってペダルを漕ぐ足を少し緩めた。自分の家と彼女の家とは、さほど離れていない。つまりは、同じ小学校に行き、同じ中学校に通い、今も同じ高校を行き来する同級生。ただし、話をしたことはほとんど無い。彼女の男勝りの性格は、つとに有名だったし、特別毛嫌いする理由が有った訳でもないのだが、かといって特別親しくしようとする動機も無かった。
「でもなあ~」と一人つぶやいてしまった。振り返ることはしなかったが、あの快活な彼女の表情が真っ黒なことは背中から感じられた。こんな中途半端な時間に住宅地を進む自転車の先には、すれ違う人もいない。橋が見えてきた。渡ってしまえば彼女の家だ。その橋の手前に、大手スーパーに追いやられて消滅していく予定の駄菓子屋があり、その前で自転車を停めた。声は発しなかったけど、びっくりしたように顔を上げた彼女に、「ちょっと待ってて」とだけ言って店に入って、「おばちゃん、アイス二つ貰うよ」。結局その後、彼女は家に着くまで、「ありがとう」と「ごめんね」しか言わなかった。

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特別親しい間柄でもない人に、常に勝気の彼女が、昨日あんな姿を見せてしまったことをきっと恥ずかしく思っているだろうなあ、と駅のベンチに座りながら想像していた。けどまあ、間違ったことはしていないだろう、と結論付けた時に、電車がホームに入ってきた。足早に降りていく同校生の塊が行きすぎた後、松葉杖の彼女がゆっくりと降りた。別に待ち構えていた訳ではないゾ、ちょっと気になっただけだから、という、誰に言うでもない言い訳を飲み込んで、昨日のように空いた階段を、一歩一歩慎重に降りていく彼女の後ろに続いた。それに気づいた彼女は、一瞬驚いた表情を見せたが、続く「昨日はありがとう、でももう大丈夫」との言葉には、昨日の弱々しさは無く、明確に手助け拒絶の意志を含んでいた。これは嫌われたかな、と思い、ここで親切の押し付けをすることもないだろうと、そのまま下まで駆け降りた。今でこそ身障者用のエレベーターが有るのだが、当時はそんなものは無く、広いが長い階段だけだった。その階段を降り切ったところで振り返れば、慣れぬ松葉杖を使って中腹まで降りたものの、疲れたのか、一呼吸置いている彼女がいた。やっぱり、と思って階段を駆け上り、彼女からカバンを奪うと、「意地張らずにちょっとだけ付き合えよ」と背を差し出した。ここでも明確な拒否の言葉を投げかけられたが、昨日の「モタモタしていると余計に目立つよ」との言葉を憶えていてくれたのか、彼女もここで押し問答するのは愚と思ったのだろう、程なく背中に彼女を感じた。ただ昨日と違うのは、「ヘンなとこ触ったらぶっ飛ばすよ!」と言い加えられたこと。右手に二つのカバン、左手に松葉杖を持っていては、そんなことできるわけないだろう、などと言っている間に階段を降り切って、そのまま改札口を抜けた。そこで彼女を背から降ろすと、「ありがとう」との言葉をやっと貰えた。面と向かって見た彼女は、昨日とは打って変わり、いつも通りだったけれど、こんなにも女らしかったっけ、との感が一瞬過ぎった。しかし、「恥ずかしいから、さっさと自転車取ってきて!」と言われれば、ハイハイと応えながら、それはたぶん気のせいだろうと思い直した。
その日はもう、すっかり春の空気だった。その中を二人を乗せた自転車が進む。あの橋が見えてきた辺りで、「今日は私が奢るからね」と後ろから声を掛けられた。「どうしても借りを造りたくない性格なんだねぇ」と言ったら、背中を小突かれた。店の前に着くと、自転車を降りる彼女に右手を差し出した。同じく右手で握ろうとした彼女は、とっさに左手に替えた。何年も毎日ラケットを握り続けている右掌は固く、女の子らしくないと思っていたからだ、と直感した。その初めて触った左手は、ちょっと冷たかったが柔らかだった。「何にする?」という彼女に、「昨日はレモン味だったから、今日はラムネ味」と言わせてもらった。その橋の架かる川は、たいして立派なものではないけど、この近所に住む子供達にとっては昔からの遊び場だった。今では川岸に公園が作られている。そのベンチに座る彼女に同席を促されたのは、ご褒美だったのだろうか。そこで彼女の口から、まったくの自分の不注意で足首を怪我してしまったこと、昨日医者に行ったら骨折ではなかったこと、インターハイ予選が始まるまでにどうしても治さなければならないこと、そんな話を聞いた。全ては予想の範囲だったし、部活動を学校生活の中心に置く彼女らしいと思った。傍らに立つ桜の木は、まだ蕾。一呼吸の沈黙の後、当然来るべきであろう質問が、彼女から発しられた。
「どうして辞めたの?」





今はどうか分からないが、その高校は進学校だったが、部活動が必須だった。どこかの部に所属しなければならない。運動が得意という訳でもなかったが、大して悩みもせずにテニス部を選んだ。ただ折からのテニスブーム、入部した新入生は50人を超えた。それに対してテニスコートは男子一面、女子一面。3年生は受験の為に殆ど出てこないとはいえ、多すぎる部員であることは明白だったし、たぶんそれは毎年の事だったのだろう。新入生はボール拾いと片づけ以外はコートに入ることは許されず、ただひたすら走るのみ。ラケットも買わされたが、素振りをする道具に過ぎず、ボールを打つことなど無かった。指導というものがまったく無く、毎日それがずっと続いた。それが基礎体力を養うことだと表向きの理由は分かっても、多すぎる部員を減らすのが目的であることは明白だった。毎日ヘトヘトになって足が動かなくなるまで走らされ、部室は有ったがそれは先輩方のものであって着替えは外、掃除やコート整備に少しでも手落ちがあれば居残りで走らされれば、その目的は徐々に達しられ、夏休み前には1年生は半分以下になっていた。そうして日が長くなった夏を迎えたら、先輩方が練習を終わってコート整備をする間だけ、ボールを打つことを許されるようになる。照明などもちろん無い、この薄暗い僅かな時間で力量を上げなければ生き残れない。夏休みが終わったら、1年生は13人になっていたが、実は2年生も同じような人数だったから、当たり前の事だったのだろう。その13番目が自分だった。テニスには二人一組のペアで戦うダブルスがあるのだが、13番目の自分には組む同僚が居ない。たぶんそのうち辞めるだろう、周りからはそう思われていたに違いなかったし、事実そこは居心地が悪いどころか、居場所は殆ど無かった。でも辞めなかった。他の12人は、辞めていく同僚をこき下ろした。あんな奴は辞めて当然だ、あんな根性無しは何処へ行っても駄目だ、もっと早くに辞めてくれた方が尚よかった、と。一日でも練習を休めば辞めたものだと見なされ、再度出て来ようものなら冷笑を浴びせられた。それを目の当たりにしてきたから、夏休みが終わるまで一度も練習を休まなかった。もっとも練習と言っても、13番目の自分は殆ど走るだけだったのだが。
根性が有った、意地が有った、いやそんなカッコイイものじゃない。ただそんな誹謗中傷と冷笑が怖かっただけなのかもしれない。そんな自分に対して、彼女は正反対の立場に居た。練習を一日も休んだことが無いのは同じだけれど、中学生の頃から名の知れたテニス選手であった彼女は、高校生になっても先輩と互角に渡り合った。当然、1年生からレギュラーであり、県の国体指定選手になった。ただ走るだけの自分に比べれば、練習の殆どをコートで過ごす彼女に、うらやむ気持ちが起こらなかったのは、実力からして当然のことと納得していたからだろうか、男子と女子との垣根が有ったからだろうか、それとも自分の事で手一杯だったからだろうか。近所に生まれ、昔からお互いが見知っているとはいえ、彼女とは顔見知りの域を出る気配はなかった。
そんな、ただ耐えるだけの一年が終わろうとしていた時、3年生が居なくなる卒業式の翌日、部を辞めると告げた。元より辞めても不思議ではないと思われていたので、同僚の1年生達の反応は、辞めること自体ではなく、何故この時なのかに集中した。3年生が居なくなり、自分たちが2年生になり、新1年生が多数入ってきて、たとえ13番目であろうと、大手を振ってテニスコートで練習できることが決まっているこの時期に、なぜその権利を放棄するのか、と。引き留めようとする気など微塵も感じられない彼らに、「だから今、辞めるのさ」、ただそれだけを言って去った。その言葉を投げつけるために、一年間耐えて頑張ってきたような気がした。
案の定、翌日からはまるで腫物が引いたみたいに軽くなった自分を感じた。そして、そうして余裕ができた時間を、多くのクラスメイト達との交流に繋げたら、いろんなことが見えてきた。バスケット部を辞めて美術部に転部した奴は、そこで油絵の魅力にはまり、コンテストで賞を取った。剣道部を辞めて暫くフラフラしていた奴が、今は生徒会活動に投じて、次期会長と言われている。女子にだって、バトミントン部を辞めて、それまで無かったワンダーフォーゲル部を立ち上げて部長をやっている子もいた。いや、そんな立派でなくても、運動部を辞めても明るく、仲間に囲まれた学校生活を送っている彼ら・彼女達が沢山いることに、やっと気付いた。先の天体観測部の奴も鉄道研究会の奴も、元は陸上部とハンドボール部なのだ。そして何より、テニス部を途中で辞めて行った彼らは、あの12人が言う程に根性無しでも、どうしようもない奴でもない。みんな其々が生き生きと高校生活を送っているではないか。そうして顔を上げて辺りを見回してみれば、この高校という枠の中でも、今まで自分が如何に狭い範囲でしか生きてこなかったのか、それを教えられた。滴り落ちる汗が染み込む足元だけを見て一年過ごしてきたのだ、と思い知らされた。
もちろん、一度決めた目標に向かって全力を捧げる者も居るし、その行為は、称賛こそすれ、異を唱えることはできない。彼女にしてみても、テニスで全国大会出場を課し、そこで好成績を得ることを欲し、それを周囲が期待し、その努力を惜しまない以上、怪我が早く治ってその道を突き進んで欲しいと思う。そうすれば、きっと嬉々とした笑顔を見せてくれるだろうから。でもね、その道が全てじゃない。たくさんある道の一つに過ぎない。安易に妥協すること、辛いから難しいからと流されてしまうこと、後悔して迷ってしまうこと、それは間違いだと誰でも気付く。でも一途に猛進している時に、ちょっとつまづくと、足元しか見えない事も有る。そんな時には、立ち上がって周りを見ること、振り返って見ること、それもまた必要な事なのだと、一年かけて教えられたのだと思う。
「じゃあ、後悔はしていないのね?」彼女の問いかけに、黙ってうなづいた。春の日差しはずっと西に傾いてしまったから、随分と長い話をしてしまったのかもしれない。こんな話を一気にしてしまうとは、本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない、とも思った。食べ残ったアイスクリームの棒を持った二人。「残念、二人ともハズレだね」と言ったら、クスッと彼女は笑った。

その翌日は、三学期の終業式の日だった。これが終われば春休み。そして僕たちは高校2年生になる。帰りの電車を待つホームに行けば、松葉杖の彼女は既にテニス部の同僚たちに囲まれ、その談笑の中に居た。そうか、今日は部活動は休みだったな、と少し距離を置いて立つ。もう自分に出番が巡り来ることは無いだろう。春らしい風が心地よかった。周りの同僚に気づかれぬように、彼女は一瞬だけ視線を合わせてくれた。口元で僅かにほほ笑んだ彼女に向かって、小さく手を振った。それが、サヨナラの標しだということに、気付いてくれただろうか。








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トシ

いつも楽しみにしてます。
今回も、素敵な話をありがとうございます。
昔のことを、ちょっと思い出してしまいました。
by トシ (2016-03-31 17:37) 

ジュニアユース

トシさん、こんにちは。
こんな話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
こうした長文を書くと、その時の雰囲気を使える難しさを痛感します。

by ジュニアユース (2016-04-01 12:13)