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月のカケラ(下弦の月) [物語]

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銀行のATMにキャッシュカードを差し込んで暗証番号を入力、残高照会のボタンを押す。「1025円」、その金額自体は数日前から分かっていたことなので、特別驚きもしない。出てきた千円札一枚を、後ろに並んでいるOLに見られないよう、サッと空っぽの財布に押し込んで、そそくさと表に出た。いくら空腹だったとはいえ、足取りが軽かろうはずもない。それでも行き先は大学より他に無い。街路樹の銀杏はすっかり黄色い葉を落としていたから、いつまでもシャツ姿では恥ずかしいな、とも思ったが、さて他に着る適当なものがあっただろうか、と思いながら人波の流れに続いた。
講義が行われる教室に入れば、既に半分ほど席は埋まっていた。馴染みの顔も何人かいたので、簡単な言葉を交わして、いつものように一番端の席に座った。隣には誰も座って欲しくなかったから。空腹でお腹がグーっと鳴る、それは我慢しようにも避けられない生理なのだ。それを聞かれたくないために、いつも、どんな講義でも、離れた席を探していた。そんな俺を見つけたのか、見知った二人の女子が駆け寄ってきた。
「サークル辞めたんだって」
興味深そうに聞く。その理由やサークルに対するネガティブな感想を聞きたかったに違いないことは分かっていた。
「ああ、どうも合わなくてさ」
簡単に答えた。聞いた方はもう少し面白い話を引き出したかったようだが、それ以上のことを言わないことを悟ると、儀礼的な挨拶は済ませた、とばかりに去っていった。引き留めるような言葉が皆無だったところをみると、僕の退部は既に予定されたことだったのだろう。
ここから400km程離れた田舎で生まれ育ち、でも早くこの家を出たいと望んで、この大学に通い始めて半年余り。押し付けられた教科書と問題集に埋もれた高校生活と違い、大学は自分の望むもの、興味があるものを好きなだけ学べる所だと思っていた。そして「キャンパスライフ」という田舎者の想像を華やかにするものを謳歌するためには、サークルという同好会に属した方が良い、と高校の先輩から聞かされていた。なので、特別な考えも無く、当時流行っていたテニスサークルに入ることにした。しかし、テニスをするにはテニスコートが必要。大学内にあるテニスコートは体育会テニス部専用なので、同好会サークルは別にコートを探すしかないが、この地でそれは容易なことではないことを、入った後に知った。そのサークルは、大学から電車とバスを乗り継いだ所に、週三回二面のコートを確保していた。部費は毎月5000円。勿論、その往復の交通費は個人持ち。しかも毎回、練習後には喫茶店でミーティングと称する、ただのお喋り会に参加しなければならない。何が面白いのだろう、と思いながらも新入生の僕は、いかにも興味深そうな顔を作って末席に居た。よく見れば、ここに居るのは自宅通学者か、独り住まいしていても東京周辺県の者が殆どで、僕のような田舎から出てきている者は僅かなのだ。練習後だから食べ物を注文する者が多かったが、俺はブレンドコーヒー、夏だけはソーダ水。それがその店で一番安いメニューだったから。「いつもそればかりね」と尋ねる声もあったが、「好きだから」「田舎でいつもコレを飲んでいたから」などと適当なことを言ったが、本当の理由はとっくに知られていたに違いない。それだけならまだ良かった。月に一度は適当な理由で飲み会が行われ、完全割り勘制なので、一回に数千円が飛んだ。酒など飲めないのに。
この大都会・東京に住む大学生としては、真面目と言われれば、確かにそうだったのかもしれない。ただ、旧態依然とした父親像を標榜する家長が居座る重苦しい家庭から解放され、勉学もそれ以外のことも含めて、自由に行動できる時間が欲しかった。また、自身がまだ未熟な事は痛感していたし、社会へ出る方向性を探るのが、この大学四年間だと思っていたから、この大都会へ赴いた。それに、この大学に合格する為にどれだけ努力したか、どれだけ多くの事を我慢したか、それも加えれば、大学に通わない、講義に出ない、という考えは端から無かった。しかし一人での生活を始めれば、予想以上にお金という「物の価値」が痛切に圧し掛かってきた。親は毎月仕送りを銀行口座に送ってくれた。直ぐにそれを引き出して、六畳一間のアパートの家賃と電気代、水道代を支払った。ガスは使わないだろうから元から無い。電話も無い。それに加えて、大学のある駅までの電車の定期代を一か月分買った。定期も数か月分買えば幾らか割安なのだが、そんな余裕は無かった。それで、とりあえず居る場所と大学に通える手段だけは確保した。料金滞納などもっての外。親から「他人に迷惑をかけるな」を叩き込まれた僕が、最低限しなければならないことだった。しかし、そうすると残った額は三万円程。その殆どが食費に費やされるのだが、一か月で三万円だから、一日千円未満で済ませなければならない。単純な引き算と割り算だ。
近所の喫茶店で、平日はモーニングサービスとして、コーヒーにトーストとゆで卵、そしてサラダを付けてくれることを知ってからは、朝はその店でお世話になった。他はともかく、新鮮な生野菜のサラダが嬉しかった。そして店には新聞や雑誌が置いてあるので、それらを片っ端から読み漁った。テレビも無い部屋の住人には、そうでもしないと世の中の情報など入ってこない。それでも誰にも邪魔されず、誰にも遠慮せずに過ごせる、その小一時間が唯一の楽しみだった。昼食は食べたり食べなかったり。夕食はさすがに食べないと空腹で寝られないことが多かったので、これは人並みに食べたかった。一番安かったのは吉野家の牛丼並盛300円なのだが、毎日そればかりという訳にはいかず。思いついたのが学食。夕方六時まで開いている学食なら、十数種のメニューがリーズナブルに食べられる。午後からの授業が無い日でも、図書館などで時間を潰して夕食にありついた。あまり早く食べたのでは、寝る前に空腹になるのは分かっていたから、必ず学食の閉店寸前に入ることにしていた。テレビの無い部屋の夜は、意外にも時間の進みが遅いものだ。
そうやって食費を削っても、見栄を張る気も無いので、格別安いもので良いから、季節に合わせた洋服は欲しかったし、風呂の無い部屋だったから銭湯に行かねばならない。この昭和年代の終わり頃の銭湯代は220円、毎日入れば6600円かかる。サークルの練習後や真夏だと毎日体を洗いたいので、食費にその額を足し算すれば、一日1000円を超える。それに加えて、あのサークルにかかる費用だ。毎月の収支は赤字、上京するときに持ってきた貯金はアッと言う間に底をついた。夢見たキャンパスライフというものが、今の自分が似つかわしくないものであることを嫌でも知らされた。そこで思い切ってサークルを辞めることにした。三年生の部長にそう告げると、意外にもあっさりと認められた。部長も多分予想していたことだろう。けれど、容赦は無かった。
「先月も払ってないし、今月分も合わせて部費一万円は払ってね」
反論の余地なく、今月末には必ず払います、とだけ言って去った。しかしこれで、たとえ翌月は更に苦しくなろうとも、その後の不本意な出費を切れる。元々金銭的な余力が無い自分が、余力のある人達と、余裕有る活動をしようとしたことが間違いだったのだ。今になって気付くのは遅いのかもしれないが、翌々月からはその間違いを是正した生活を送れるのだ、と納得するしかなかった。
もちろん、金を借りるということも考えた。しかし、誰から借りられるというのだ。一人でこの東京にやって来ても半年もすれば、友人と呼べるような知人も数人できたが、額はともかく、借金をお願いできるような深く長い付き合いの友でもない。逆にそんなことを言えば、僕から離れていくことは自明だった。親戚・縁者もこの地には居ない。サラ金と呼ばれるようなものもあったが、返せる見込みの無い以上、自分で自分の首を絞めるようなものだと分かっていた。今更ながら、幼少期から「他人に迷惑をかけるな」と叩き込まれたその言葉が、重くのしかかっていた。サラ金であろうが闇金であろうが、他人には違いないのだから。
もちろん、仕送りの増額を申し出たこともあった。しかし、昭和一桁生まれの父は頑として首を縦に振らなかった。金を増やせとは遊びたいという事だろう、増やせば遊びに使うだろう、東京とはそういう所だ、との固定観念を持っていたらしい。いっそ、「東京の私立大学の高額な入学金と学費を払っているのだから、これ以上は出せない」と言ってくれた方がスッキリ納得できたかもしれないが、高慢な父にそれは期待できない。僕としても、こんな親元から抜け出したいが為にここに一人でやって来たのだ。もうこれ以上説明し、頭を下げるのは嫌だった。ただ、それを見かねたのだろう母が、コッソリとその月の仕送り額を一万円増額してくれた。翌月には元通りの金額に戻ったのだが、これで冬用の服が買える、と思った。でも買えたのは今着ているシャツとズボン、それと駅前の安売り店で買った1980円のスニーカーだけ。冬が近づけば、それらと夏服の重ね着で我慢するにも限界が見えていた。
現代に子供達にとっては、お年玉で数万円を何箇所から貰える時代なのだから、千円や百円は気軽に使えるような金額だろう。振り返ってその時の僕は、バブル景気真っ只中の東京に居る一日千円未満という生活は、あのサークルを辞めてもさほど変わらない。自炊すればもう少し安く食べていけるかもしれない、との考えも浮かんだが、冷蔵庫も調理器具も無く、それらを買い揃える金も無ければ、それはただの机上の空論。では、出ていく金が減らせないのなら、入ってくる金を増やせばイイじゃないか、との考えが浮かぶ。幸いサークルを辞めたことで、少しばかり時間に余裕が出来た。これを利用してアルバイトをして稼ごう、との考えが向いたのは自然なことだろう。まだ求職専門誌が巷に溢れる前だったので、まずは大学の総務課に行ってみた。そこで見つけたのが、割と時給の良いアルバイト。電話すれば、明日からでも来いと言う。その明日は日曜日で特に何もすることが無いので、指定された場所に行ってみた。ヘルメットと作業服を渡された。仕事内容は、二~三人で車に乗り、首都高速道路の看板の清掃やトンネル内の切れた照明の取り換え(今ではLEDだが当時はまだ蛍光管)だった。すぐ横を猛スピードで走る車の脇での作業なので、一瞬危険を感じたこともあったが、一日目としては無難に終えられたと思う。ただ慣れない仕事で体はクタクタで、その日は暑かったので汗みどろ。帰宅したら直ぐに銭湯に行ってサッパリしたかった。頭からシャワーを浴びると、足元に真っ黒い水が流れ出てきたのには驚いた。いくらヘルメットを被っていても、髪の毛は自動車の排煙を吸い込み、顔や手足など露出している部分も真っ黒、鼻や耳の穴まで黒かった。今のような排ガス規制が無い時代なのだ。いくら時給が高くても、この仕事を続ければ体に害が及ぶことは必定と思うと、続ける意欲が急速に失せた。翌日退社の電話を掛けた。所長はあっさり受け付けてくれたが、次の言葉は加えられた。
「昨日の日当は制服のクリーニング代と差し引きゼロだからね」
次に行ったのが、募集広告が張られたファーストフード店。自室と大学との中間に有って通いやすく、時給はこの前のものよりグッと安かったが、食べ物を扱うのだから体に悪い筈は無かろうと思ったし、授業の日程を考慮して勤務シフトを組んでくれるというので、これは長く働けるかな、と思った。仕事内容は調理補助。確かに先輩方が仕事の手順を教えてくれるのだが、店が忙しいせいか早口で、よく聞き取れない。でもやらされるので、見よう見真似でやれば失敗。途端に罵声を浴びる。「さっきも言ったでしょ」「何度言ったら覚えるんだ、ホントに大学生か」「邪魔だ、どけ」「ボーっとしてるなら給料は無いぞ」等々。それらの罵声も、客の居る席には決して届かないよう音量調整してあるので、たぶん慣れた言い回しだったのだろう。やっと作った料理をわざと床に落とされたことも何度かあった。今で言えばブラック企業という事になるだろうが、そんな罵声といじめを浴びながらの数時間を我慢して四日間通った。だが五日目に行くときに、駅で急に腹痛に襲われ、慌ててトイレに駆け込んだ。そこで上から下から、体の中のものを全て吐き出してしまった。吐き出したものを見る勇気も無く、すぐに水で流したのだが、まだまだ出てきた。生まれて初めて、精神と肉体が悲鳴をあげた瞬間だった。フラフラになりながら、やっとトイレから脱出できたのは小一時間経った頃だろうか。今から店に向かっても大幅な遅刻。きっといつも以上に怒りと愚痴と嫌みを散々に浴びせられることを想像できる以上、店に向かう意欲も勇気も失った。駅の公衆電話から「体調が良くないので」とだけ伝えて、自室に戻った。六畳一間の万年床に横になれば、何だか体がだるく、熱っぽい。体温計が無いので何度か分からないが、その晩は高熱にうなされて一睡もできなかった。もちろん、薬など無い。こんな時こそ病院へ行って適切な処置をすべきなのだが、いくら保険証を持っていても、治療はタダではない。医者と言う所はお金の有る人が行くところで、僕などが行ったら、その後の生活が成りゆかない。だから、何も食べず、水道の水だけを飲み、薄い布団に包まって寝ている他に方法が無かった。それでも三日後には這い出るように布団を出て、何とか外に出られるまで回復できたのだから、それは若さ故のことだろう。でも四日間も欠勤してしまったのも事実。恐る恐るその店に電話してみた。
「ああ、もう代わりの人が来ているから無理して来なくていいよ」
要するに、クビだな、と思った。
「四日間の日当から制服のクリーニング代を引いても、少し残るだろうから、取りに来てもいいよ。ただし来月だけど」
しかし、あの店を精神的にも肉体的にも拒絶している僕には、そうする勇気は無かった。
それら二か所のアルバイトを経験して、もう三つ目のアルバイトを探す気が生まれてこなかった。運が悪かっただけ、求人の探し方が下手だっただけ、確かにそうなのかもしれない。けれどその時には、もう能動的思考と呼べるようなものを失っていた。我慢すればいい、それだけだった。二十年近く生きてきて、貧困というものに無知、無関心だった報いなのかもしれない。確かに、お金よりも大切なものは有る、お金よりも価値あるものは有る。でも、「人はお金が無ければ生きていけない」、これは絶対的な真実なのだ。






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さて、講義が終わった。午後の講義は休講になっていたから、今日はこれで終わり。教室を出る学生たちは其々の方向に散らばっていくが、その半分は学食に向かっていた。ポケットの中の財布を取り出して見た。しっかり千円札が見えた。この札を小銭にしてしまうと、アッという間に散らばり、無くなってしまうような気がしていたので、できる限り長くこのまま財布に居て欲しいと思った。学食に入ると、案の定、満席に近かった。ここには食べるためにやって来たのではない。無料で飲める水を求めて来たのだ。ゴクリと一杯。決して美味い水ではないが、自室の水道水に比べれば遥かにマシだ。それらに比べれば、田舎の水の何と美味しかったことか。ただの水、とさげすんでいた記憶が懐かしい。コップ三杯の水を飲んでも腹が満たされるわけではないが、他人がおいしそうに食べている姿を見るのはもっと嫌なので、そのまま学食を出て図書館へ向かう。このところ時間の空いた時は図書館に居ることにしている。夏でも冷房が効いているし、ここに居れば誰かの好奇な目を気にすることもないし、新聞も置いてあった。なので、あの楽園のような朝の喫茶店にはもう行っていない。それは少し寂しいことだけど、確実に300円の節約にはなる。
ひととおり新聞を読んでしまうと、何もすることが無かった。持っている講義の資料を読み返しても良かったし、本棚から興味を引きそうなもの引っ張り出してもよかったが、今日はそんな気にはなれなかった。そのまま図書館を出て、まだ午後3時過ぎというのに、帰りの電車に乗った。あの蒸し暑い夏が去ってくれたのは嬉しかったが、冬の到来を予感せずにはいられない。暖房器具の無い部屋はどんなに寒くなるのだろう、と気が重くなりそうだが、今はまだこの季節。この秋の心地よい風を楽しもう、と不安を振り払いながら、駅から自室まで歩いた。天気は晴れだが、東京の空は青くない。青が薄いのだ。どうしてだか分からないが、東京に来て以来ビルに囲まれた空を何度も見上げても、真っ青な空というのを見たことが無かった。
自室に着いても何もすることが無かった。でも、ここまでの道程で心地よい秋風を感じていたから、今日は窓を全開にして、その空気を入れたかった。それならばいっそ、この部屋を掃除しようと思い立った。掃除機など無い。有るのは何ヶ月か前に買ったプラスチックのホウキとチリトリだけ。万年床を畳み、ホウキでサッサと掃けば、六畳一間など直ぐに終わった。ただチリを巻き上げただけのような気もしたが、きっと窓からやって来る秋風が、どこかに運んでくれるだろう。今更ながらこの部屋を見回してみる。六畳の畳部屋に三畳程の板間が有り、小さな流し台の隣にはトイレが有る。バス・トイレ付きの部屋などは選択肢に無かったが、胃腸が弱い僕にはトイレは必需品だった。なので、たとえ駅から遠くても、陽があまり当たらなくても、この部屋を選んだ。もちろん室内も室外も、豪華でも洒落た作りでもなく、貧乏学生にふさわしい木造二階建ての古い部屋だった。でも少なくともここに居れば安全で、誰からも文句は言われず、安心して眠れる唯一の場所。この部屋こそが東京生活の中心だった。殺風景で何も無いのは、自分の今をよく表しているが、大切な場所なんだ、と今まで何度思ったことか。
脱ぎ捨てた衣類が部屋の隅のビニール袋に入れてあるのを見て、ここまで掃除したのなら洗濯もしたくなってきた。もちろん洗濯機など無い。近くのコインランドリーを利用するしかないのだが、それには一回100円がどうしても必要。この最後の千円札を使わなければならない。銀行から引き出して半日で崩してしまうのは、何とも惜しい、そう本気で思って悩んだ。100円を使うのに、こんなにも悩んだことが無いほど悩んだ。でも今日は何だか気分が良い。気候のせいだろうか。いつかはこの千円札とオサラバするのなら、今がイイと思った。大きなビニール袋を抱えて部屋を出た。夕刻になっても、秋風はまだ僅かに感じられた。
両替機に千円札を差し込めば、即座に100円玉が出てきた。まあ当たり前のことなのだが、ちょっと感傷的になってしまうところが、病んでいる証拠なのかもしれない。持ってきた衣類をドサッと入れて100円玉を1個投入すれば、即座に注水が始まる。洗濯洗剤を一掴み放り込む。あれっ、この洗剤ってどうして有るんだろう。自分で買った記憶が無い。そういえば、シャンプーやハミガキなども買った憶えが無いのに有る。買っていないのなら、たぶん田舎を出る際に持ってきたものだろう。だとしたら、そんなに大量に持ってきた訳ではなかろう。もう半年以上も経つのに無くならないとは、如何に節約してきたかの証だな、と思ったが、如何に無精してきたかの証でもあるな、と思い返せば、クスっと笑ってしまった。笑う? 笑うなんて何日ぶりだろう。この前笑ったのは何時だっただろう。でも笑うという行為を忘れていなかったことに、ちょっと安堵した。それはきっと、今日の秋風のお陰なのだろう。
コインランドリー店の向かい側は、小さな公園になっていた。洗濯が終わるまで店内で待っていても良かったが、その日は外が気持ち良くて、その公園に足を踏み入れた。子供用の遊具が幾つか有ったが、ブランコに目が留まった。ブランコなんて何年ぶりだろう、小学生以来かな、と思いながら腰を落としてみる。当たり前だが低い。両足を上げて漕いでみる。そういえば小学生の時友人と、どこまで高く上がるか競った記憶が蘇る。もっと、もっと高く、と漕いでみる。そうすれば、ちっとも青くない青空が眼一杯に入ってくる、その刹那引き戻され、今度は茶色い地面が視界を覆う。そんな地面は見たくないから、もっと空に近づきたいから、また力を込めて漕ぐ。そうすれば、あの青空が、もう少しだけ青くなったような気がする。けれどまた直ぐ茶色の地面に戻される。力を入れて漕がなければ、空は青くならず遠ざかるばかり。その繰り返し。それは今の自分の境遇なのだろうか。苦しい受験を乗り越えて、夢見た場所にやって来たが、そこは理想とは程遠く、苦しく、でももっと力強く頑張れば、違う空が見えるのだろうか。ブランコとは何と不思議な乗り物なのか、と思った。
ブランコを降りれば、そこには現実の世界が待っていた。公園の端の方で遊んでいた親子が発する怪訝そうな視線に気付いた。そりゃそうだろう、こんな大人がブランコを一生懸命漕いでいるなんて。不審者扱いされるのも嫌なので、視線を向けずサッサとコインランドリーに戻ったら、洗濯機は止まっていた。もう100円使えば乾燥機を利用できるのだが、そんな身分ではない。洗濯機から衣類を取り出し、持ってきたビニール袋に突っ込んで外に出た。自室に戻る道すがら、その公園をチラッと見たが、あの親子の姿はもう無かった。
物干し竿なんて、もちろん無い。室内にビニール紐を張って、そこに洗濯され濡れた衣類を干した。部屋の中が洗剤の匂いで満たされた。それも悪くは無いのだが、今日は窓を開けて秋風を入れたかった。もう日は沈み、辺りは夕闇に包まれつつあった。窓からは数メートル先の隣家の壁が見えるだけで、見るべきものも無ければ、覗かれる心配も無かった。ただ少し先を走る広い街道から、車の走行音が微かに聞こえるだけだった。灯もつけず、暗い部屋の中、いつもなら万年床に横になるところだが、今日は畳んでしまったので、やけに部屋が広く感じる。壁に寄りかかり、ただただ窓から僅かに見える狭い空をボーっと見ていた。空腹の筈なのに、今日は腹の虫は鳴かなかった。きっともう、鳴き疲れてしまったのだろう。それとも、あまりに食べ物がやって来ないので、どこかへ逃げてしまったのかもしれない、と馬鹿なことを考えてしまった。人間って、何もすることが無いとこんなにも馬鹿になるものなのか、とまた少し笑った。ここなら笑っても、不審や好奇の目を向けられることは無いだろうから。
フッと目が覚めた。どうやら壁に寄りかかりながら眠ってしまったらしい。この部屋の唯一の調度品である時計が午後11時を示していた。おもむろにポケットから財布を取り出して、中を確認する。よかった、100円玉が9個確かに有った。安心したら喉が渇いた。水道水をプラスチックのコップに入れてゴクリ。まずい。まずいけれどコレしかないので仕方ない。さて、吊るした洗濯物が邪魔だが、畳んだ布団を敷いて寝ようか、と思った時、不意に何故だか、銭湯に行きたくなった。今日は部屋を掃除し、洗濯もしたし、最後に自分の身も綺麗にすれば完璧かな、などと適当な理由を付けて外に出た。銭湯は広い道路を渡った先に有る。その道路を渡るためには歩道橋を上らなければならないのが面倒なことなのだが、それは仕方ない。番台のおばさんに220円を支払って入った。脱衣所には大きな鏡が付けてあるのだが、それを見るのは嫌だった。日増しに痩せていく姿がみすぼらしく見えるから。だからいつも、その鏡を避けて湯船に向かった。今日は特に、頭の先から足の先まで念入りに洗った。次にいつ来れるか分からないから、と思ったからなのだが、どうも理由はそれだけではない気がしていた。もちろん、それが何なのかは分からない。まあ気にせず、セッセと体を洗い、広い湯船にゆっくり浸かった。気持ちよかった。たとえ空腹でも、気持ちよかった。
結局、銭湯の閉店時間まで居てしまった。服を着る時、せっかく体を綺麗にしたのに、この服じゃなぁ、と思ったが、洗濯した服はまだ乾いていなかったから仕方ない。それにこんな時間では、誰に見られる訳でもなかろう。銭湯を出る時に、もう一度ポケットの財布を取り出して、中を確認した。来週までの全財産を落としたり忘れたりしたら大変だ。命をつなぐ680円を数えてから、銭湯に来た時の格好のまま、来た道を戻った。たとえ東京でも、アパートとマンション、住宅街に挟まれた狭い路地にある銭湯の周辺は暗く、もうこの時間では人影を見ることは無かった。そしてまた、あの歩道橋を上った。眼下には、昼間は渋滞の車列がゆっくりと動くだけだったが、この時間では大型トラックやタクシーが結構なスピードで走っていた。歩道橋の中央辺りで立ち止まれば、そこは風の通り道らしく、秋の乾いた風が風呂上がりの体に心地良かった。夏も火照った体に気持ち良かったが、秋風も悪くない。冬はちょっと遠慮したいだろうが。
歩道橋の欄干に肘をつき、下を流れる車達をボーっと見ていた。こんな時間に、こんなスピードで車を走らせている運転手達は、きっと目的有ってのことだろう。会社の命令、家族の元へ帰るため、お金を稼ぐため。それに引き換え自分は、何も無い。これが自由というなら、随分と思い違いしたものだ。自由とは、自分の思う通りの行動ができることであって、何もすることが無い、何もできない状態を自由とは呼べないだろう。こんな鎖につながれたような苦しい自由なら、いっそ捨ててしまった方が良いのかもしれない。その方が楽かもしれない。幸い、周りに誰も居ない。この歩道橋の欄干程度なら、簡単に飛び越えられる。飛び降りて、トラックにでも巻き込まれれば、この重い鎖を断ち切れて、真の自由が得られるのではないか。実はその為に、部屋を掃除し、洗濯もし、銭湯で身も綺麗にしてきたのではないのか。やるべきことはやった、精一杯やってみた。「もういいよな」何気なくそんな言葉がこぼれた。何が「いい」のか分からない。体か頭か、どこかの奥底から出てきた言葉など、考える意味など無いのかもしれない。その言葉に後押しされて、両手を歩道橋の手摺りに置き、力を入れれば、両足は歩道橋の床から離れ、思いのほか軽く体が浮きあがった。後は上半身を前に倒していけば、自然と此処ではない、どこかの世界に落下するはずだった。しかしその刹那、下から大型トラックのクラクションと共に強い風が吹き上がった。僕の痩せた体は押し戻され、また足を歩道橋に着いてしまった。着いてしまうと体全体から力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまった。その時、フッと昼間のブランコが頭を過った。あのブランコと同じじゃないか。下ばかり見れば、草も生えない土しか見えない。けれど力を込めて上を見上げれば、違った空が広がって見えたのではなかったか。
僕は歩道橋の上から夜空を見上げていた。月が見えた。昔、理科の時間に習った下弦の月だった。一週間ほど前に見た時は、確か満月に近かったと思う。それが半分程度に欠けていた。あの日が十五夜だったのなら、今日は二十三夜ということか。明日になれば、この大地を一周して、もう少し欠けていることだろう。しかし、そうして日々欠けていくのなら、欠けた月のカケラはどこに行ってしまうのだろう。大地を回る間に散らばり、何処かに落としてくるのだろうか。もしそうなら、それを拾えれば、幸せになれるのだろうか。幸せ? 幸せって何? 満腹になるまで食べられること? 冬でも寒くない服が着れること? 自由な時間が一杯あること? 楽しみを分かち合える友人や恋人がいること? お金をたくさん持っていること?
残った680円にすがり、少しずつ減っていく恐怖に耐えながら数日間を過ごさねばならないことを考えると、いっそ無くした方が清々するのかもしれない。そうだ、明日にでもこの先にある神社の賽銭箱に全部入れてしまおう。そう思いながら、誰もいない深夜の歩道橋の上で、ただ下弦の月を見ていた。頬をなでていた秋風は、いつの間にか止んでいた。下を見れば吸い込まそうな気がしたので、歩道橋の手摺りに肘を置き、ただただ月を見ていた。
その時、パンプスを履いた人影が、ゆっくりと歩道橋を上って来ることなど、そんな僕は知る由もなかった。

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コメントの受付は締め切りました
トシ

ジュニアユースさん、久しぶりの長編ですね。
このお話を、続きがありそうですね。楽しみにしてます[exclamation]
by トシ (2019-11-23 22:49) 

wataru-wata

ジュニアユース様、おはようございます☆

そして、ご無沙汰しておりました・・・。

物語になっていて、吸い込まれるように読ませていただきました。

そして「これ、ジュニアユース様の事かな?」なんて思ったりしながら、読みました。

いやぁ、やっぱ文才がお有りですね☆
by wataru-wata (2019-11-25 09:18) 

ジュニアユース

コメントありがとうございます。

トシさん、こんにちは。
こんな長い文章、読んで頂けただけで感謝です。ありがとうございます。

wataru-wataさん、お久しぶりです。
文才があるとは思っていませんが、こうした長文が書けるのが、ブログの良い所でしょうね。
この話、続きがありますので、もう少しお付き合いいただければ幸いです。

by ジュニアユース (2019-11-26 23:04)