SSブログ

月のカケラ(上弦の月) [物語]

月のカケラ3-1.jpg

それから、二人の共同生活が始まった。彼女はいつも食材を抱かえて来ると、冷蔵庫の隙間を埋めていった。その手料理は、毎回文句の付けようもないほど美味かったが、たとえ彼女が居なくても、冷蔵庫に満たされた冷凍食品や調理済み食材、飲み物、それに加えて電子レンジが有れば、一日中食べる事に苦労することは無くなった。毎日食べられる、水道の水で腹を満たさなくてもよい、それがどんなに幸せなことか、痛切に感じさせられた。そして、食欲に対する不安が払拭されれば、人は正常な精神を保つことができ、活動することができるのだ、と知らされた。
そんな彼女は、毎日必ず帰って来るわけではなかった。二、三日帰ってこない旨のメモが残されていることもあった。最初は水商売の人かな、とも思ったが、彼女と昼間に会うことは無く、朝起きれば必ず居ない、来る時は夕方か夜であることを考えれば、どうもそうではないらしい。それとなく彼女に聞いてみても、はぐらかされるか、「それは秘密よ」と言われるだけで、しつこく聞けば怒られそうなので、止めておいた。僕にも知識や用心が無い訳ではなく、いつか「俺の女に手を出しやがって!」と怖い人に怒鳴り込まれるのではないか、悪い道へ強要されるのではないか、との懸念は勿論有ったが、それを口に出して言う勇気は無かった。結局、彼女のことは殆ど知らないままでも、どんどん月日が流れていけば、僕のそんな猜疑心もいつしか薄れていった。
ただやはり、同棲生活ではなく共同生活だった。絶世の美人、とか、芸能人並み、という程ではないにしても、彼女は間違いなく美人の範疇にあり、それに加えスラリとした肢体は、僕の男としての情を引き寄せていたし、肉体的な交わりも有った。しかし、そんな僕の愛情が傾いていくことを知ってか知らずか、そんな時は帰って来なかったり、帰って来ても深夜で、会話無く寝てしまったりして、彼女と僕の心理的な距離は一定の間隔を保ったまま。なので、この関係を恋人同士とは言い切れず、やはり共同生活と言うのが自然なのだろう。それが歯がゆく感じたこともあったが、それまでの悲惨な生活から抜け出せたことだけで、僕は十分「幸せ」を感じられていた。
その年も残り一か月となった夕方、珍しく手ぶらで彼女、望月弓子さんが帰ってきた。
「もう冷蔵庫のものが少ないでしょ。今日はたくさん買いたいから、荷物運びに一緒に来て」
この小さな部屋の玄関は、既に彼女のパンプス、ハイヒールなどで一杯になっていたが、それを跨いで外に出た。陽が落ちれば、既に冬の空気が感じられる季節となっていた。駅前のスーパーマーケットへ並んで歩いていると、ふと彼女が立ち止まった。僕の頭の先から足の先までじっくり見回し、「ダサイ」と一言。安物の長袖シャツを重ね着した姿は、そう言われれば反論の余地無し。ヒールの高いブーツを履いていたとはいえ、視線が僕と同じ高さと言うのは、女性としては高身長だろう。そんな颯爽とした大人の女性の横を歩くには、あまりに貧相な格好なのは明らかだった。
「やめた。今日は外食にしましょう。それを何とかしないとね」
二人は電車に乗り、大きなターミナル駅に降り立った。
「男性服の店って、あまり知らないから」
この時間でも駅ビルの中の店は開いていた。そのフロアーを見回しながら、ツカツカと歩く彼女の後に続く。
「これがイイんじゃない」
彼女が指差した店頭のマネキンが来ていたのは、確かに派手過ぎず地味過ぎず、でもちょっと高級感のある衣装だった。僕の返答を待たずに店員を呼ぶと、彼女は試着したいと告げた。
「このセーターですか?」
「いえ、これ全部。スラックスもね」
店員はそのマネキンを裸にすると、僕を試着室に誘導する。下着以外全て脱ぎ、その衣服を全て着て、試着室のカーテンを開ければ、腕組みをした彼女にまた、上から下まで眺められた。
「なかなか似合っているわよ」
満足気にそう言うと、傍らの店員に、これ全て買うと告げる。その潔さに押されて、それらを脱ごうと試着室に戻ろうとする僕。
「これ全部着ていきますから、タグだけ外してください」
店員はそれらのタグを全て外し、脱いだ安物の服をきれいに畳んで袋に入れてくれた。そうこうしている間に彼女は支払いを済ませたみたいで、改めて僕の姿を見て問う。
「聞くけど、その靴に何か思い入れでもあるの?」
駅前の安売り店で1980円で買ったスニーカーだ。もう随分長く履いて汚れ放題なので、この服に合わないことは間違いない。否と言う返事を持って、彼女は同じフロアーに有る靴店に向かう。グルっと店内を一周した彼女は、カジュアルだけど立派な革靴を持ってきた。なぜ僕の靴のサイズを知っているのか不思議だったが、その靴はサイズも先ほどの服にもピッタリだった。コレもこのまま履いて帰る旨を店員に告げ、そしてまた歩き出した彼女の後を、それまで着ていた服などの入った袋を持って追えば、ある店の前に着いた。
「すみませ~ん、コレください」
既に店員に告げているではないか。彼女が指さしていたのは、ダウンのハーフコートだった。今ではダウンなど珍しくもないが、当時はまだ高価で、大学生の持ち物としては上位に位置するもの。しかも、僕でも知っている有名メーカーのものだった。高価な中身を連想される高級そうな袋に入れられた品を受け取れば、たった小一時間程で、僕はちょっとリッチな家の大学生になっていた。それを彼女は随分とご機嫌そうに眺める。しかし彼女が支払った額は、あの部屋の一か月の家賃を軽く超えているだろう。食品は生きるためのもの、二人で食べるためのものと考えれば、まだ納得できる。でもこれはあまりに頼り過ぎだ。買って貰ったものには大いに満足しているが、これは直ぐには無理でも、少しづつでもお返ししなければならない、そんな考えが過ったが、彼女には全てが見通し済みのようだ。
「これは君の為じゃない、私の為なの。私の横を歩く人になってもらう為なの。分かる?」
「それでも、流石にこれは・・・」と言いかけたところで、彼女はにっこり笑って僕の背中をポンと押した。
「さあ、今日は何を食べようか。気分はイタリアンね」
最上階のレストラン街へ向かうエレベーターに向かって歩き始めた。

それからも彼女は、「昔の男が残していった服だけど、クリーニングしたから着てみる?」と何着か持って来ることがあった。しかし、どう見ても一度洗った服のようには思えなかった。もしかすると、僕は着せ替え人形で、彼女好みに変えていくのを楽しんでいるかのようにも思えてきた。ただ、確実に僕は変わっていった。痩せこけた顔は元に戻り、服装も今風の大学生の水準に達していた。大学内を歩く姿にオドオドしたような劣等感に近いものは無く、それを見た以前のサークルの女子が近づいてきた。
「最近何か良いことでもあったの?」
「彼女が出来たんじゃない?」
好奇心の塊の言葉を投げかけられたが、真実を言うべきではないことは分かっていた。ただちょっとだけ、優越感みたいなものが湧いたことは確かだった。
年の瀬が意識されるようになると、彼女は週に二、三日しか帰って来なくなっていた。もちろん毎回、食材片手に来てくれるので、食べる事に苦労しないのは変わらないが、何か不安感みたいなものが少し持ち上がってきた。それを払拭しようと、僕は彼女にクリスマスプレゼントを用意することにした。サークルも辞め、切り詰めねばならなかった食費も僅かしか掛からないとなれば、その月の収支は少しだけ黒字になっていたから。しかし女性、しかも年上の大人の女性に渡すものなど見当もつかなかった。毎日、彼女と行った駅ビルの店舗をウロウロして絞り出した答えが、赤いマフラーだった。単一色ではない、僅かに斜めにラインの入った赤いマフラーを、プレゼント用に梱包してもらった。これでイヴの夜に帰って来なければ困るのだが、「イヴの日はケーキを買ってくるからね」の言葉を信じて待つことにした。
その夜、彼女はなかなか来なかった。時計が午前0時を示す数分前に、白い吐息と少しの酒の匂い、でもケーキの箱をしっかり持って上がり込んできた。
「ごめんねぇ、遅くなって」
「いえ、イヴの夜に間に合ってよかった」
リボンの掛かった箱を手渡すと、彼女の眼がキラキラと輝き、嬉々とした表情で箱を開けた。
「うわ~、ステキ!」
部屋に入ってまだコートを脱いでいない彼女は、その上から赤いマフラーを巻いた。それを見て、やっぱりコレにして良かった、と思ったし、こんな満面の笑みの彼女を見るのは初めてだったかもしれない。
「ありがとーう!」
彼女に抱きしめられ、赤い唇が僕の頬に盛大に跡を付けてくれた。
「今までお世話になった、ホンのささやかですけど、お礼です」
「ありがとう」
六畳間で、立ったまま向き合う二人。
「君も男らしくなったね」
まじまじと僕の顔を見つめて告げる彼女。一瞬、いや少しの沈黙。いつも見ている彼女なのに、今夜は慈愛に満ちた眼をしていた。そして彼女はそっと、いつもより長く、もう一度僕を抱きしめた。
「さて、ケーキを食べようか」
コートを脱ぎながらそう言うと、直径20cm程の丸いケーキが小さなテーブルの上に出された。
「私ね、こんな丸いケーキを一人分づつ切って食べるんじゃなくて、二人で突っつきなが食べるのが好きなの」
その言葉通り、二人がそれぞれフォークをもって、丸いケーキを両方向から崩すように食べていく。そして、ペタンとケーキの最後の山が倒れて、そこで二つのフォークが止まった。
「お正月はどうしようか。人込みは嫌だろうから、どこか小さな神社にでも初詣に行こうか?」
機嫌良く言ったつもりだったが、彼女は一瞬にして真顔になった。
「ダメよ」
「ええっ、どうして?」
「ダメ!」
部屋の気温が一気に下がったような気がした。
「あなたには帰る故郷がある。待っている両親もいる。お正月は帰らなければダメ」
その言葉には、妙に迫力があった。NOと言わせない重みがあった。逆らえない眼が光っていた。
「う、うん、そうだね」
僕はそれだけ言うのが精一杯だった。それを聞くと彼女は、持ってきた袋からワインのボトルを取り出した。
「まあ、クリスマスだからね。ちょっとだけ付き合ってよ」
二つのグラスにワインが注がれ、僕は酔い過ぎないように少しづつ口に含んだが、彼女は豪快に飲んだ。そうして様々の事を語らいながら、長くて熱い夜を過ごした。






窓は閉められていたが、すりガラス超しに入ってくる日差しで目が覚めた。頭が痛かった。これが初めて経験する、二日酔いというものだろう。もちろん彼女の姿は無かったが、それはいつものこと。そして、いつものようにテーブルの上にメモが残されていた。
「年内は帰りません お年玉をたくさん貰ってくるのよ 弓子」
そうか、昨夜が今年最後だったんだ。そう思えば、少しの寂しさを感じたが、昨夜の彼女の言葉を思い起こせば、早々に僕を実家に返すための配慮かな、と気づいた。確かに堅苦しい実家を思えば、彼女の居るこの部屋の方がずっと心地良いから、帰郷にはきっと後ろ髪を引かれたことだろう。その彼女が居ないことがはっきりすれば、大学も休みに入ったことだし、この部屋にとどまる意味も無し。それに「年内は帰りません」とは、新年になれば会えるんだ、そしたら何処かへ初詣に行ければいいな、そう思い直すことにした。彼女と出会う前なら、少なからずマイナス思考で落ち込んでいたかもしれない。それが、こうして次の行動に移れるようになったのは、心身共に健康になった証だろう。ただ、それをはっきりと意識し、真に実感するには、僕にはもう少し時間が必要だった。

月のカケラ3-2.jpg

予定を早めて帰郷した姿を実家で見せれば、頑固一徹の父は上機嫌だった。食卓のコップにビールが注がれたが、東京では酒は全く飲んでいない、と言うと、更に上機嫌になった。
「今年は大変だったろう。よく頑張ったな」
父の誉め言葉など期待もしていなかったし、嬉しさも感じなかった。僕がどんなに苦労したか、言ってやろうと思った時、父から先に言われてしまった。
「来年からは約束通り、仕送り額を増やすから頑張れよ」
約束通り? 仕送り額を増やす? そんな約束など聞いていない、聞いたことが無い。昨年、増額を頼んだ時にも、そんなこと一言も言わなかったじゃないか。たぶん自分勝手に決めて、自分勝手に思い込んでいたに違いない。いつもそうだ。そんな約束を知っていれば、それを一縷(いちる)の望みとして頑張れたかもしれない。それが無かったが為に、他界寸前まで追い込まれたのではないか。これが父親の躾(しつけ)というなら、何と身勝手で一方的なものか。怒りが込み上げてきた。「そんな約束は聞いてない、そんなものは要らない」と跳ねつけてやりたかった。でもそんな気持ちをグッと抑えて、貰えるものは貰っておこう、と落ち着かせた。そんな寛容さを持てたのも、実は彼女の存在故なのだ。彼女がいたから、いま僕はこの食卓に座っていられるのだし、正常な精神を保っていられるのだ。彼女の顔がフッと過り、早く会って報告したいと思うようになった。
十代最後の正月ということで、最後になるであろうお年玉は、例年通りの親戚の人や父の友人の来訪で、昨年の倍近くに膨れ上がった。これもきっと、彼女は予想していたことなのだろう。家に居ても堅苦しい挨拶が続くので、貰えるものを貰ったら、久しぶりに高校時代の友人との新年会に顔を出した。もちろんそれは懐具合に余裕ができたからだが、会えば遠慮も屈託も無い会話が新鮮だった。東京では、たとえ友人と言えど、こんなにフランクな会話などできなかったから。
「お前、何だか洗練した感じになったなあ。さすが東京人」
そんな言葉を何度か掛けられたが、自分の努力でそうなったのではないことを自覚しているので、ちょっと恥ずかしかった。ただ彼女が僕にしてくれた成果の報告は、お礼の言葉と一緒に告げるべきだと思った。そう思うと、また無性に会いたくなってきた。
僕の生まれた地方では、正月は三が日までというのが一般的だった。大企業を除いては、1月4日から仕事を始める家が殆どで、我が家もそうだった。その1月4日に東京へ戻るつもりでいたが、新幹線が混むから、という理由を付けて、本心は早く彼女に会いたかったから、3日の夜に実家を出ることにした。帰郷には安価な夜行バスを使ったが、懐が膨らんだ戻り路は新幹線が使えた。3日の夕食を家族で過ごし、その後の電車に乗れば午後11時過ぎにはアパートに着ける計算だった。「もう少しゆっくりしていけば」との母の言葉も受けたが、明日からの仕事でワサワサしている家中では、そんなに拘束力を感じなかった。

新幹線は予想に反して混んでいなかった。車中では、彼女への報告の整理ばかり考えていた。この二か月余りの間、彼女が僕にしてくれたことを振り返れば、返す言葉が見つからない程に恩義を感じていたし、彼女の言うことは全て正しかった。それに加え、彼女への思慕の情も膨らんでいた。仕送り額が増えれば、僕は自立できる。そうなれば彼女と一組の男女として、対等とまではいかないにせよ、これから先も付き合っていけるだろうか。そんな想いを胸に、予定通りにアパートの部屋にたどり着いた。
ドアを開ければ真っ暗だった。誰も居ない証拠だったが、それは予想の範囲内。正月三が日が過ぎれば、またこれまでと同じように帰って来てくれるだろう。灯を点けるために靴を脱いで板間に足を乗せた瞬間、いつもと違う感じがした。六畳間の畳の上でも同じ感じがした。ヌルっとした感じが皆無で、キュッとした感じが足裏に伝わる。これは板間や畳を拭き掃除した感じだ。いつもなら、タバコの香りが残っているはずだが、それも無い。部屋の照明を点ければ、何だか広く感じる。それもその筈、いつも天井付近に貼られたビニール紐に掛けられていた、彼女の服が一つも無い。部屋の隅に鎮座していた、あのスーツケースも無い。振り返れば、玄関を埋めていた彼女の靴が一足も無い。これは、昔のままじゃないか。いや、冷蔵庫と電子レンジは有った。開ければ、食材が一杯に詰まっていたが、常にあった缶ビールは一つも入っていなかった。そして。
そして、小さなテーブルの上には、あの時作った合鍵と缶コーヒーが一本、そしてメモ残されていた。
「元気でね バイバイ 弓子」
「そんな! これだけ?」
誰も居ない部屋で叫んでしまった。こんな短い一文で、この共同生活を終わらせるというのか。その為に部屋を元に戻し、二度と戻らないというのか。それはないだろう、あんまりだ。愕然として、全身の力が抜けて、しゃがみこんでしまった。ついさっきまで胸に有った、彼女へ告げる結果報告の言葉など、すっ飛んでしまった。もう、どうしていいか分からない。錯乱する頭を落ち着かせようと、目の前の缶コーヒーを手に取れば、まだ僅かに温かさを感じた。彼女がこの部屋を出たのは、そんなに前じゃない。まだ追いつけるかもしれない。僕は脱兎のごとく、部屋を飛び出した。
1月3日の午後11時過ぎ、東京とはいえ住宅街は、静かで暗い夜だった。その中を僕は走る。まずは駅だ。駅へ走る道すがら、見つけた人影を一人一人確認する。駅周辺には新年会の帰りなのか、この時間でも人は絶えてはいなかったが、それも一人一人の顔を確認して廻る。そうして駅周辺を一周して、今度は駅構内に入って同じように見て廻る。定期券を持っているので、ホームまで行ける。上り下りの両ホームを端から端まで走りながら確認するが、彼女を見つけられない。駅を出て、スーパーマーケットのある短い商店街へ向かう。ここも彼女と二人でよく来た場所だが、今は殆どの店がシャッターを閉じていて、人影まばら。なおも走りながら出会う人を確認するが、見つけられない。冬だというのに、汗が首筋を流れてきた。部屋から駅までの間の道を片っ端から走り続ける。居ない。後はどこだ? そうか、あそこか。彼女と最初に出会った歩道橋が浮かび上がり、そこに向かって全力で走る。階段を駆け上がって見ても誰も居ない。下を覗き込んでも、道路を走る車列しか見えない。そのまま銭湯まで走る。ここは二人でよく来たところ。閉店間近の暖簾(のれん)をくぐって番台のおばちゃんに尋ねる。
「いつも僕と一緒に来ていた30歳前後の女性って、来てませんか?」
「何言ってるのアンタ、いつも一人で来てたじゃない」
そりゃあ、男湯と女湯に分かれて入るのだから、一緒ではないのだが、そんな説明をしている時間が惜しい。とにかく今は、そんな歳の女性が入っていないことだけ確認すると、また走る。正月なのだ、ひょっとしてあの小さな神社かもしれない。歩道橋を渡る時、もう一度周囲を見回してから、神社へ走る。まだ三が日、神社は門松や提灯の飾り付けがそのままだった。神様の居る場所を走ってはいけないと思い、薄暗い境内を肩で息をしながら歩いて一周する。誰も居なかった。後はどこを探せばいい? 記憶を辿って彼女と一緒に歩いたことのある道を見つけては走る。今見つけられなければ永遠に会えない、と思い、走る。でも住宅街のそんな道は、もう人影すら無かった。万策尽きてしまったのか。いやまだ有る。コインランドリーだ。あそこには二人で行ったことがある。鉛のように重くなった足を引き上げて走る。しかし、そこに着けばシャッターが閉まっていて、年末年始休業の張り紙がしてあった。額から、頭から、汗がしたたり落ち、肩で荒い息をして膝に手を置き、そしてとうとう地面に座りこんでしまった。冷たいアスファルトのはずが、そうは感じられなかった。
僕は座り込み、ポツリポツリとしたたり落ちる汗が道路に吸い込まれていく様を見ていた。部屋を出てから一時間近く経っているだろうか。もう自分の足で探せる範囲に彼女は居ない。そして、名前しか知らない彼女とは、もう二度と会えない。その現実の重さに押し潰されそうだった。無一文より、絶食より、辛いと思った。なぜ? どうすればよかったか? そんな疑問は無限に湧き上がってきたが、回答になりそうなものは皆無だった。確かに僕たちの共同生活が、永遠に続くものではないことは感じていた。いつかは別離が来ることは感じていた。でも、もう一度だけ、もう一言だけ、会って伝えたかった。それが出来ないことが悔しかった。
背中に流れた汗が、ようやく冷たく感じられるようになって、力なく立ち上がった。その時だった。目の前の小さな公園、街灯の隅で動くものを見た。公園に足を踏み入れると、あのブランコが揺れているのを見た。この深夜にブランコに乗っている人などいるのだろうか。僕は引き寄せられるように静々と近づいてみた。揺れていたブランコに人は無く、僕が近づけば、ゆっくりと止まった。これに乗れ、ということか。ブランコに腰掛け、漕いでみる。冷たい冷気が頬を撫でる。あの時と同じだ。僅かな小銭を持って、絶望の淵にあえいでいたあの時と同じだ。もう少し力を入れて漕げば、もう少し高く上がり、ビルに囲まれた夜空が見えた。もっと力を加えれば、もっと高く上がる。見える夜空が少し広がる。そしてそこに、月が見えた。そうか、彼女は最後に、この月を見せたかったんだ。そこで僕は、全てを悟った。
あれは下弦の月ではない。大地を巡りながら、少しづつカケラを落としてゆく下弦の月ではない。大地を巡りながら、少しづつカケラを集めて満月に近づいていく、上弦の月だ。あの時、あの歩道橋で、僕は欠けゆく下弦の月から、そのカケラを拾ったんだ。いや、貰ったのかもしれない。彼女は、その月のカケラそのもの。それが、奈落に落ちそうな僕を拾い上げてくれ、自分の足で歩けるまでにしてくれた。そうして彼女は、月のカケラは、また満月になる為に戻っていったのだ。
涙が溢れ出た。いつの間にかブランコは止まっていた。今度はポツリポツリとしたたり落ちる涙が、黒い大地に染み込んでいく。涙の他には、何の言葉も出てこなかった。こんなちっぽけな僕の為に、彼女は誠心誠意で導いてくれた。彼女が居なければ、今の僕は無い。こうして生きて、大地に足を着けていられるのは、全て彼女のお陰なのだ。涙が止まらない。けれど、それは別れた辛さではない。会えない悲しみではない。心底から噴出する、言葉にすることさえおこがましい、感謝と言う感情の塊の雫(しずく)だった。涙で揺らいで見える上弦の月を、僕はもう一度見上げた。もう少し、もう少しだけ、そうしていたかった。









<エピローグ>

あれから8年の歳月が流れた。僕は無事に卒業して社会人となり、仕事にも職場にも慣れ、自分の足場を築き始めているところだった。あの安アパートから引っ越して、今は自分の収入に見合った、多摩川寄りの1LDKの部屋に住んでいる。休日の今日は所用があって、久しぶりに新宿にやって来た。目的の品を購入して店を出ると、群青色の空が漆黒に移っていく時間だった。もっとも新宿では、ネオンサインや看板で、空とビルとの境目は分からないのだが。
店の前の歩道には、留まることのない人の波が流れている。そんな流れに身を滑り込ませる。その流れは決して遅くはない。ここは東京・新宿の真ん中、誰もが目的を持って歩いているのだ。足取りが赤信号で止められた。その時、僕はフッと、道路を挟んで向かい側の歩道を見た。そこには、モノトーン色の濃いコートの群れの中で、微妙にウェーブした髪の根元に巻かれた赤いマフラーと、男性の塊の中でも埋もれることなく凛と立つ姿。憶えている、あの赤いマフラーは僕がプレゼントしたものだ、忘れる訳がない。そしてそれを首に巻く彼女も、たとえ8年経とうが、記憶から消える訳がない。信号が青に変わると、僕を飲み込んでいた人塊が前に動き出す。彼女も同様に向かい側の歩道を歩き出した。それを目で追いながら、彼女に並行して僕も歩く。見間違いだろうか。いや絶対そんなことはない。見間違う筈が無い。
流れる人波の中で、彼女は歩みを止めた。僕も彼女から眼を離さず、立ち止まった。僕の視線に気づいてくれたのか、彼女がこちらを見た。間違いない。たとえ10メートル離れていても、8年経っても、決して忘れる事の無かった彼女だった。彼女はあの時と少しも変わっていない。でも僕は、この8年間で変わってしまった。僕のことを憶えていてくれるだろうか? 
柔和な表情の彼女が僕を見ていた。しかし、今の僕達の間には道路とガードレールが有り、頻繁に行き交う車列が二人の視線の交差の邪魔をする。僕は急いでこの道路を渡り、彼女の元に駆け寄りたかった。その意志を感じてくれたのか、彼女はまた歩き始めた。僕も歩く。すぐ先に交差点がある。そこでこの道路を渡ってしまえば、彼女の元に行ける。僕は歩みを速めた。その時だった。彼女がまた立ち止まった。そして向かい合った見知らぬ青年と何か話をしている。その青年は、この冬空なのにコートもジャケットも着ていない、ただシャツを重ね着しただけのような姿だった。それはまさに、8年前の僕と同じじゃないか。彼女はその青年と僅かに言葉を交わすと、彼の背中をポンと押して、並んで歩き始めた。そして一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ただ佇むしかない僕に視線を向け、口元で微笑むと、その青年と二人で人波の渦の中に埋もれていった。



nice!(1)  コメント(3) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 3

コメントの受付は締め切りました
wataru-wata

ジュニアユース様、おはようございます☆

完結編がアップされており、仕事そっちのけで読んでしまいました(笑)

「おぉ~~~」と悲しくなりながら3度読ませていただきました。

そして前回も書かせていただきましたが、ジュニアユース様の文章力に脱帽です。

これだけの文章力があれば、小説など書かれても良いのではないでしょうか?
by wataru-wata (2019-12-04 08:59) 

トシ

引き込まれるように一気に読んでしまいました。こんな長文を書けるだけで、すごいなあ。
それに、過去の物語に比べてもドラマみたいで、このまま映像化できそうですね。
ここに出てくる彼女が、柴咲コウに思えるのは、私だけでしょうか。
by トシ (2019-12-04 14:44) 

ジュニアユース

コメントありがとうございます。

wataru-wataさん、こんにちは。
お褒めの言葉を頂き、恐縮です。
これでも一生懸命に書いた物語ですので、共感していただいたようで嬉しいです。
もしかすると、感性が私と似ているのかもしれませんね。

トシさん、こんにちは。
過去最長の文章を読んで頂き、ありがとうございます。
こうした記事が書けるから、ブログという形式が私には合っていると思っています。
今後ともよろしくお願いします。
ちなみに、柴咲コウさんは、私の好きな女優さんです。

by ジュニアユース (2019-12-05 23:56)