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義援金の次 [巷の雑感・時の想い]

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日本が未曾有の災害に襲われて一カ月が過ぎた。
当初、外から眺めていた我々には、表面的な情報しかもたらされなかったが、次第に内部からの情報が増え、その悲惨さは我々から言葉と活力を奪ったようだ。被災地奥深くに入り込んだレポーターからの話と画に、時に涙すらした。そして、多くの人が義援金募金に協力したことは、日本人の良心の表れなのかもしれない。
街の至る所に募金箱が置かれ、義援金を募る声があちこちから流れ、多くの人が「少しでも」と協力した。私も、額は僅かだが、複数の募金箱に僅かな善意を入れてきた。そして、それらの善意は既に、1000億円を超える額となった、とどこかで聞いた。しかし同時に、復興を果たすには、16~25兆円もの金額が必要、という話も聞いた。
新学期・新年度は始まったというのに、今なお余震は続き、原発は予断を許さない。こうした事態に、いち早く大量の物資と人員を投入して、被害の拡大防止に努めること、それはセオリーだと思う。正しいと思う。しかし、大量の物資と人員の投入は、多額の経費=お金が必要だ、ということも事実。そしてそれで防げたとしても、そこから復興となると、その数倍・数十倍の経費=お金がまた必要。もちろん、義援金でまかなえるわけではない。
その予算はどこから出てくるのだろうか。政府は、これまでプールした準備金を使い、足りなければ国債の発行を、ということらしい。確かに、被災地の復興という大義のためにはやむなし、というコンセンサスは得られるかもしれない。しかし、国債とは国の借金であり、政府が使う予算は、我々の税金なのだ。同じ日本人として、被災者・被災地のために、それは是とするなら、被災地以外でいつもどおりの生活が送れる我々は、近い将来の増税の重みに、踏ん張らなければならないのではないだろうか。
テレビからは、節電をしましょう・買占めは止めましょう、というメッセージが毎日のように流れる。それはつまり、節約をしましょう、というように聞こえる。節約は確かに美徳だ。でもそれは、国内消費を抑えることをも意味する。多くのイベントや催しが中止や延期をされている。そんな場合ではない、と。時期的に不適切だ、と。でもそれは、活力や笑顔を奪ってはいないだろうか。
元気づける立場にある我々が、困っている人々を支えなければならない我々が、元気や活力を失ってはいけないと思う。既に私の身近のサービス業では、被災地から遠く離れているにもかかわらず、存続を危うくするくらい深刻な事態に陥っている、という話を聞く。就職活動している学生達からは、更なる悲鳴が聞こえている。
被災地のための義援金に協力する。それはとても意義ある行為だと思う。しかし、無限に協力できるわけではない。次は、そうした被災者に配慮しつつも、それ以外の人達は、いつもどおりに生活し、仕事し、できればこれまで以上に活気溢れる経済活動をしていかなければないのでは、と思ってしまった。もちろん私は、経済学者でも政治に詳しいわけでもない凡人。買い物のついでに立ち寄った店で、義援金の募金箱を見て、ちょっと思っただけなのだが。

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