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夏の少女 [物語]

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9月になったとて、急に秋になる訳ではない。誰が決めたのかは分からない暦のページが変わり、人は粛々とその変化に従う。そしてフッと顔を上げたときに、やっと巡る季節の気配を感じるのだろう。
長く楽しかった夏休みが終わり、また2学期が始まるのは、少しばかり憂鬱な気分も流れたりするが、小学生なら級友達との再会の楽しみの方が幾分勝っていた。それが中学生となると逆転。だいたい中学生だと夏休みと言えど、部活動で登校することが多く、そこでクラスメイト達と何度も顔を合わせているのだから、久しぶりの再会という感は乏しく、これからまた毎日小難しい授業に押し込まれることを思えば、夏休み前の開放的気分の逆になるのも当然の事。それでもそんな夏を経て、馴染みの教室に、馴染みの顔が集まれば、話のネタが尽きることは無く、そんな雑然とした雰囲気で満たされた、9月1日の1年4組の教室に、僕は居た。
担任の先生が教室のドアを開けると、間髪を入れず、久しぶりに聞く「きりーつ」という室長の声。ああこの声を聞いてしまうと、また始まるんだ、という想いが湧き出る。「れい」というこれも馴染みの掛け声で頭を下げて、椅子に腰を落とせば、目の前の先生に並んで、一人の少女が居た。ちょうど首が隠れるくらいの長さのボブヘアーで丸顔。特に背が高いわけでも痩せているわけでもない中肉中背。クリッとした印象的な眼。その子は転校生。先生が紹介している間は、幾分緊張の表情を浮かべていたが、それは多分僕らも同じだったと思う。当時は高度成長期の日本だから、親の転勤なんて珍しくもなかっただろうが、地方に住む僕と僕の仲間たちにとっては、初めて迎える転校生だった。
その時の僕は、クラス内では数人の男女の仲間の一人で、その一人が先の室長だったものだから、クラスの主流派の一員ということになっていた。2学期が始まるとすぐに、体育祭やら文化祭というクラス単位での行事が多くなるのだが、彼女が特に望んだわけでも、誰かが特に欲したわけでもなく、極めて自然に彼女は、ほどなく僕らの一員になっていった。「前の学校では何て呼ばれてたの?」「タヌ」「タヌ? どうして?」「タヌキに似ているって」。瞬時に一同大笑いの後、「それで決まりだな」との室長の声で、僕らから彼女は「タヌ」と呼ばれるようになった。しかし結局僕は、一度も彼女をそう呼んだことは無かった。
明瞭快活そのままの彼女は、転校生が当初抱かえるであろう遠慮や物怖じを、極めて短期間に済ませてしまい、誰隔てなく気軽に接していく姿は、僕たちから転校生というレッテルを見事に剥がしてしまった。曖昧さを嫌い、時に竹を割ったような言動は、僕たちをハッとさせるようなことは有っても、暗さや陰険さとは正反対の彼女を、悪く言う者はいなかった。すっかり僕たち数人の一員となった彼女だが、随分昔から一緒にいる仲間のよう、とまで言うには、ちょっと違う、微妙な距離感は感じた。いかに溶け込んだとはいえ、過去に一緒に居た時間の長さを考えれば、それは当たり前の事なのだろうと、誰もがそう納得していた。
年が変わった冬の日。部活動の帰りなら、大概はその仲間と一緒に帰るのに、すっかり暗くなった校舎を一人で出ることになったのだから、たぶん生徒会の仕事の後だったと思う。下校指定時間をとうに過ぎていたらしく、校門まで誰一人見かけない、静かな夕闇だった。街灯の明かりに照らされた、その校門のところまで来ると、急に後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、彼女が居た。たぶんそれは、本当に偶然だったと思う。彼女はその時ハンドボール部に所属していて、なぜ一人で帰ることになったのかは分からない。けれど僕が校門を出ようとする時、いつもと変わらない屈託の無い笑顔で、実に軽やかに言った、「一緒に帰ろう」。思惑も表裏も全く感じさせない、いつも通りの彼女は、躊躇など微塵も無い足取りで、スタスタと歩いて行く。「ウン」と小さく答えたものの、そんな彼女の態度とは正反対の僕は、急いで歩みを合わせた。その時、僕たちがどんな会話を交わしたのか、憶えていない。ただ彼女が、肩まで伸びたストレートヘアーに、マフラーを巻いていたことだけは憶えている。いつも仲間の一人として接していた僕が、彼女と二人だけの空間を持つのは初めてのことだった。いや13歳になったばかりの僕にとって、異性というものを最初に意識した瞬間だったのかもしれない。もし誰かに見られたらどうしよう、そんな考えももちろん脳裏を過ぎったが、そんな緊張の僕を知ってか知らずか、彼女はまったく意に介さない様子で、極めていつもと同じように、時に僕の肩越しに笑顔を振り向けて、スタスタと歩いて行った。幸か不幸か、校門から僕の自宅までは僅か数百メートルだったので、そんな(たぶん貴重な)時間はアッという間に過ぎ、家の前に着いてしまった。「じゃあね」と片手を軽く上げた彼女は、それから一度も振り返りもせず、真っ直ぐに歩んで行った。その時たぶん僕は、ホッと溜息をついたに違いない。嬉しかった? いや、その時はそんな気持ちは浮かばなかったと思う。ただ、僅か数分にも満たないことなのに、確かに僕の中に彼女は、残った。
翌日、彼女と挨拶を交わしても、まったくいつもと変わりなく、伏せ目がちに言葉を発した自分の方が恥ずかしく思えた。ただ、それだけ。ただそれだけの記憶の欠片を残して、また何でもない時間が流れ、僕らは中学2年生になり、彼女とは別々のクラスに分かれることになる。相変わらずのいつもの仲間数人は、クラスが分かれようが、時間が合えばバカ話に余念が無いが、いつの間にかそこに彼女の姿を見る事は激減した。が、遠くから見るに、彼女はやっぱり彼女のまま、快活そのものに映った。誰かが彼女に想いを寄せている、という噂を何度か耳にしたが、彼女が誰かと付き合っている、という話は一度も聞いたことがなかった。もちろん、彼女が誰かと二人だけでいる姿など、見たことはなかった。彼女の周りにはいつも複数の人がいて、だけどその中心ではなく、かといって単なる追従者になることを潔しとはせず、周りと積極的に関わりながらもリーダーにはならず、いつもの彼女のままだった。僕は彼女を好きだったのだろうか。否、その時そんな気持ちは抱いていなかったと思う。クラスは分かれても、確かに気になる存在では有り続けたけれど、僕も新しいクラスメイトの中での毎日に、埋もれていた。
その夏僕は、大会に向けて猛練習という名のシゴキの中にいた。ジリジリと肌を射す日差しは、容赦なく体内から水分を搾り取り、日が傾けば和らぐかと思っても、熱い空気が何時までもまとわりつく、そんな7月。やっと解放された僕は、他の部員たちと一緒に、校門脇の日陰で座り込んでいた。理由は、その校門近くに飲み物の自動販売機が有ったから。練習が終わった後の渇いた喉に、その冷たい液体を通すことだけが、過酷な練習に堪ええる唯一の心の支えであり、その日も同じだった。夏の夕方のささやかな宴。冷たい缶コーラを掲げれば、その日の辛い練習も報われるように思えたのだから、単純な田舎の中学2年生だったろう。さて、と立ち上がった僕の背後を、女子ハンドボール部の一団が、練習を終わって通りかかったらしい。らしい、とは、はっきりとは見ていなかったから。通り過ぎようとするその一団から、一人の子が僕の背後から走り寄ってきて、いきなり僕の持っていたコーラの缶を奪い取ると、「ちょっと頂戴」といって、その飲みかけの缶コーラをゴクゴクと美味しそうに飲み始めた。あまりに突然のことに一言も発せない僕。「ごめん、全部飲んじゃった」と、何の悪気も感じられない満面の笑みを投げかけ、空になった缶を押しつけると、また走って戻っていった。あまりに唐突で、一瞬の出来事で、僕は何も言えず、周りにいた同僚部員達も掛ける言葉も無く、ただ凝固する僕と空き缶だけが、そこに残った。
現代の子ではない、40年も前の田舎の13歳にとって、それは小さな衝撃となって残ったことは間違いないが、だからといって彼女と僕との距離が縮まったり濃くなることも無く、ただそれだけ。その後の夏休みも、淡々と過ぎて行った。彼女とはその時以来、言葉を交わすどころか、顔を合わせることも無くなった。そんな8月のページも残り少なくなった頃、部活動の帰り道に友人が話しかけてきた。「彼女、転校するんだって。知ってた?」と。「ハンドボール部のヤツに聞いたんだけど、もう別れの挨拶も済ませて、学校にはもう来ないみたい」。「へえ、そうなんだ」と、実は衝撃的だったのに無意識のうちに、生半可な返事で逃げ場を作った僕。理解も整理もできない状態で、やっと自室に滑り込んだ。事ここに至っても、どうしていいのか分からない。別に好きな訳でも、付き合っている訳でもなく、ただの友人の一人に過ぎないのだから、このまま聞き流しても不思議じゃない。悪くはない。あんなことを聞かなかったことにすれば、ただ彼女の居ない2学期が何事も無く始まり、その中で僕はまたいつものように過ごしていけるだろう。でも、それでいいのだろうか。後悔はしないのだろうか。でも、彼女との思い出なんて言えるもの、無いじゃないか。それだけの仲じゃないか。気持ちの置場を見つけられず、躊躇する気持ちを翻せるほどのものも導き出せない、まだ自分が未熟という事さえも知らない、幼い僕だったと思う。
でも、このままではいけないと思った。いや、このまま自分を納得させるだけの、力も知恵も自信も無かった。だから行こうと思った。おもむろに机の引き出しを開け、1年生の時のクラス名簿を探し出した。そこには、転校生として末尾に付け加えられた、彼女の住所が手書きされていた。夕暮れが迫る中、脱兎のごとく自転車で飛び出した僕は、行ったことの無い住所を目指した。彼女はもう居ないかもしれない。居たとしても、彼女に会ってどうするのだ。どんな言葉を掛ければいいのか。何を伝えればいいのか。ただ昨年、クラスメイトとして半年ばかり同じ教室に居ただけなのに。何の答えも導き出せないまま、まもなく過去の人になってしまうであろう家の前まで辿り着いた。そして彼女は、まだそこに居た。「えー、来てくれたの。ありがとう」と、いつもとまったく変わらない笑顔と声が届いても、僕は何も返す言葉を持ち合わせていなかった。彼女の背後には、引っ越し荷物であろうダンボール箱が積まれているのが見えた。その時、たぶん時間にすれば僅か数分だったに違いない、彼女と僕の最後の時に、彼女が何を語り、僕が何を伝えたのか、今は思い出せない。初めて彼女と二人で歩いた数百メートルと同じように。ただ別れ際に、「来てくれてありがとう」と、彼女が差し伸べる手を初めて握った時に、転校してきてからずっと変わらない笑顔のままなのに、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、彼女の眼が曇ったことを、僕は見逃さなかった。でもそれが直ぐにかき消されたことに、彼女の真意を得たような気がして、僕は自転車に乗った。僕にはもうそれで充分だった。たとえ百の言葉より、千の時間より、それで充分だと思った。ペダルに力を込めて進んだ。振り返ってはいけないと思った。あの冬の日、一度も振り返らずにまっすぐ歩み続けた彼女のように、振り返ってはならないと思った。何故だか分からないけれど、ただただ前だけを見て走った。信号で停まった時にフッと見上げれば、そこには紅に染まった雲が流れていく。巡る季節を示していた。

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続き・・・


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