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「卒業写真」 [本・映画・アニメ・詩歌]

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悲しいことがあると 開く皮の表紙
卒業写真のあの人は やさしい目をしてる

町でみかけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影が そのままだったから

人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くでしかって


「人ごみに流されて変わってゆく私」とは、地方から出て都会暮らしを続ける私が、故郷に居た頃に持っていた純粋な気持ちを失っていく様のように聞こえます。しかし、そればかりとは限らないと思います。たとえ多数の人間の中に居なくても、長い年月を通じて多くの人と出会い・別れ、その悲喜が積み重なった状態をも含まれると思いました。それ故、別に都会暮らしをしていない人でも、「変わってゆく私」であるはずです。
それに対して「卒業写真のあの人」は、そんな時や人に流されず、あの時のままで居続ける。「しかって」は「叱って」でしょう。とすれば、変わった私は、良い方向ではなく、悪い方向に変わった、だから「叱って」ということなのでしょうか。それも、そうとは言い切れないと思いました。卒業写真に載っている「あの人」と相対していた頃の自分は、当然学生だったでしょうし、金銭的にも行動力の点でも、制限が有ったことでしょう。今よりも経験も知識も乏しかったことでしょう。全ての面で、今の方が劣っている、間違っているとは考え難い。そんな「あなた」に「叱って」と言うのは、あの頃に持っていたものを、今は無くしている、見失っている、からなのだと思います。そしてそんな自分を叱ることができるのは、あの頃の私を知っている、あの頃のままの「あなた」だと綴っています。
「叱って」という言葉の前に、「遠くで」という言葉が付きます。今の現実世界でではなく、あくまで私の心の中で、見守るように叱ってほしい、と言っているように聞こえます。

話しかけるように ゆれる柳の下を
通った道さえ今はもう 電車から見るだけ

あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは私の 青春そのもの

人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くでしかって

あなたは私の 青春そのもの


昔の級友たち、それが恋人だった人であろうと、親友だった人であろうと、アルバムの中のそんな人に出会うこと、それは昔の自分に会う事でもあります。それを郷愁というのでしょう。しかし、この詩の中には、「懐かしい」とか「恋しい」とか、心情を直接的に表すような言葉は一つも出てきません。唯一それらしいのは、「話しかけるように ゆれる柳の下を 通った道さえ今はもう 電車から見るだけ」という情景描写のみ。それも「話しかけるようにゆれる」という、何ともアンニュイな表現が、この詩を綴った作者の非凡を表しています。
この詩の中に出てくる「あなた」とは、一体誰なのでしょう。皆さんの中には、直ぐに顔を思い浮かべられる人もいるでしょうし、暫し過去を遡る時間が必要な人もいるでしょう。そんな思い出の人をお持ちの方、きっといらっしゃると思います。でも本当は、そんな「あなた」は居ないのではないか、と私は思ってしまいます。現実的に、卒業した当時のままに居続けられる人間なんて、まず居ないでしょう。時と共に成長し、挫折と成功を繰り返し、多くの人と触れ合いながら変化していくのが、人です。変わらないのは、アルバムの写真と自分の中の想い出のみ。色褪せない記憶の中の人に想いを馳せ、「叱って」と言うシチュエーションを作り出していますが、実はそれら過去の記憶を擬人化して、「あなた」と呼んでいるのであって、本当は、「あなた」は過去の自分自身なのではないか、と思ってしまいました。
曲の詩は、乗せるメロディと一体になって評価されるべきとは思います。けれどその少ない文字の中に、ハッとさせられることもあります。僅か200字ほど、13行のこの詩は、多くの言葉を重ねないと表せない、伝えられない、昨今の詩とは対極にあるように思えたので、ここに書かせていただきました。

悲しいことがあった時、つらい時、卒業写真をフッと覗いてみて、過去の自分と話してみることは、決して無駄でも、間違っているわけでもないと思います。むしろ、そんな「あなた」を持っていることを、誇りに思い、大切にしてください。


荒井由実 「卒業写真」


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