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「遠くで汽笛を聞きながら」 [本・映画・アニメ・詩歌]

遠くで汽笛を聞きながら.jpg

汽笛とは本来、工場・機関車・汽船などの蒸気機関にとりつけ、時報や合図・信号などに使うもののことです。この曲が発表された1976年でさえ、そんな蒸気機関が一般的だったとは思えず、この詩中で出てくる「汽笛」とは、過ぎ去った過去や失ったものを象徴するものとして使われていると思います。

悩みつづけた日々が
まるで嘘のように
忘れられる時が
来るまで心を閉じたまま
暮らしてゆこう
遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で


「遠くで汽笛を聞きながら」、題名にもなったこのフレーズが3回も繰り返されます。この詩に描かれている主人公は、今は不遇をかこっているのでしょう。その彼が、「汽笛」という代名詞を使って思いを馳せるのは、過ぎ去った過去、置き去りにした故郷でしょうか。どちらにせよ、遠く、もう二度と戻れぬ、手にすることができないものとして、今の自分の立場や生活からみて、後悔の対称となっているように思えます。しかしその汽笛を「遠くで聞く」、とあります。そんな汽笛で連想されるようなものに想いを馳せながらも、近づきたい、取り戻したい、という意思は無いように思えます。

俺を見捨てた女を
恨んで生きるより
幼い心に秘めた
むなしい涙の捨て場所を
探してみたい
遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で


「何もいいことがなかったこの街で」、このフレーズも3回繰り返され、はっきりと今の主人公の状況を伝えています。「夢を追いかけて都会に出てきたけれど」「両親と共に楽しく暮らしていたけれど」、このフレーズの前提に、そんな言葉が浮かびます。汽笛と共にここまでやってきたけれど、何もいいことが無かったと言い切れる不毛の地に、今も自らを置かねばならない無念さ、くやしさが汲み取れます。

せめて一夜の夢と
泣いて泣き明かして
自分の言葉に嘘は
つくまい人を裏切るまい
生きてゆきたい
遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で


けれど主人公は、そんな今の泣きたい位の立場や生活に対しても、「暮らしていこう」「探してみたい」「生きてゆきたい」と、決意を込めて語ります。たとえ今は逆境の中にあっても、貧しくても、思うがままにならなくても、苦しくても、悲しくても、さみしくても、それでも・・・、と。この詩は、無邪気に夢見ていた過去の自分、幸せに育んでくれた故郷に対して想いを馳せながらも、今を後悔はせず、堪えて前を向いて生きていこう、という応援歌なのだと思います。

もろくも崩れ落ちそうな道を辿って、何とかここまで来た私ですが、そんな今年もまもなく幕を閉じます。この一年が素晴らしい想い出に満ちた人にも、そうでなかった人にも、新しい年は等しくやってきます。年が変わったからといって、劇的に何かが変わることは、ないかもしれません。それでも明日は、必ずやって来ます。それが自らの望んだものではないかもしれません。けれど、心を折らず、誰も恨まず、自分に正直に過ごしていければ、それで充分なのだと、私はこの歌を聴きながら感じました。

今年最後の記事として、この詩を紹介させていただき、締めとさせていただきます。
今年一年、どうもありがとうございました。
そして皆様に、来る年が輝きに満ちていることを、心からお祈り申し上げます。



遠くで汽笛を聞きながら


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