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Precious Memories [物語]

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オフィスビルの自動ドアを抜けると、一瞬に硬直した空気に包まれた。昨夜は寒いと背を丸めたのに、溜まった仕事を片付けた今日はそうでもないのだから、人の感じ方なんて、当てにならないものだと思う。目の前を行き交う人々がいつもより多いのは、人並の帰宅時間に滑り込めた証なのだろう。だからといって晴れ晴れしい解放感も無く、頭の中に重いものが無いというだけで、ただ駅へと向かう人の波に身を任せる。夕闇の中ビル街から家路へ向かうと思われるそれは、決してゆっくりとした流れではない。こんな日には寄り道でも、という考えは、誰に咎められた訳でもないが起きず、ただ見知らぬ人達の後ろ姿に続く。そんな足取りが止められたのは、地下鉄駅の入り口前交差点。止められた理由を確認した赤いシグナルの後で、フッと私の目を引いたのが、数歩前の赤いマフラー。モノトーン色の濃いコートの群れの中で、微妙にウェーブした髪の根元に巻かれた赤いマフラー。厚いコートを着ているとはいえ、引き寄せれば華奢な肩を思い出させる女性の後ろ姿。「彼女」は、緑の点灯と共に歩み出していた。
あの赤いマフラーは憶えている。いや単一色ではない。僅かにラインの入った赤いマフラーは、以前プレゼントに渡したマフラーに見間違いは無い。私などよりずっと歩幅が小さいはずの彼女は、それでもしっかりした足取りで地下鉄駅へ続く階段を降りていく。もちろん、私も続く。どんな時も顔を下げず、まっすぐ前を見て歩く彼女の姿は、あの時のまま。まさかこんな所で出会うことなどあるのだろうか。もう何年前の事だったろう、あのマフラーを付けた彼女が、私の元を去った雨の日は。蘇るあの日の後ろ姿と、今眼の前の後ろ姿がはっきり重なり合う。どうか同じ電車に乗ってくれと願いながら、歩みを早める私。しかし。しかし、もし顔を合わせたとして、何と声を掛ければ良いのだろう。そう思い至った時、改札口に到着した。
掛ける言葉が見つからない私は、電車を待つ赤いマフラーをまだ見続けていた。現在するべきことよりも、過去からやって来る画の方が多い私。僅か数分にも満たないであろう、そんな時間と思考が止められたのは、電車がホームに停まった瞬間だった。電車に乗り込む人達の中で、一瞬振り返った彼女は、私の知っている彼女ではなかった。その刹那、その場から動けない私。電車のドアが閉められ、右へ流れ去る赤いマフラー。人影まばらになったホーム。次の電車を告げるアナウンスが、どこか遠くから聞こえたような気がした。

どうかしている。疲れているのだろうか。無様に恥じる自分がそこに居た。ただ、張り詰めた緊張感が溶けたことは確か。考えてみれば、彼女だけが歳をとらない訳がない。今もきっとどこかで元気に過ごしているであろう彼女も、自分と同じ中年と呼ばれるような歳。あの赤いマフラーが似合う歳でもないのだ。過去の幻影ならば、いっそあの時と同じ姿で現れて欲しかった、などと愚痴に似た想いが過ぎっては苦笑。しかし、とうの昔に忘れ去ったはずの彼女が、今こうして突然に記憶の中から現れてくる、これは何なのだろう。忘れ去ったと思っていても、実は忘れてはいなかったということだろうか。もし今、こうして赤いマフラーを見なければ、こんな記憶は生涯蘇らなかったかもしれない。ならば、取るに足らない無為な記憶が、何かの拍子にちょっと顔を出したに過ぎないのだろうか。でも、この私を満たしている言い様もない懐古感は何だろう。苦しくもなければ、悲しくもない。
ホームの柱の陰でただ立ち尽くす私の前には、磁石に吸い付くように、乗降口を示す前に人が並び始めた。でもまだ一歩が重い。今の生活、今の家族、今の仕事。同僚たちや上司・部下、故郷に住む両親や遠くに嫁いだ妹も含め、近所のおばちゃんや馴染みの店のマスターも入れれば、多くの人達と時間と空間を共有している。それら一人一人と関わり合いながら、現在を生き、そして記憶や記録が積み重なっていく。そうした、現在に繋がる記憶だけが残すべき価値の有るものなのだろうか。否、そうではあるまい。少なくとも今の自分を成しているのは、これまでに出会って別れた膨大な人達との関わりによって得られたもの。それら全てを常に記憶しておくことは凡人の才には及ばない事なのだろうが、かといって薄れゆく記憶が害ではないだろう。何かの拍子にフッと現れては消えかかる記憶、それはきっと貴重なものだと思いたい。
気丈な彼女だった。今もきっと何処かで、誰かと一緒に、私とは違う方向に向けて歩いているに違いない。共通の友人達もいたが、今はもう私のアドレスから消えかかっている。あれから随分月日が流れたのだ、彼女と現在の私を繋ぐものは、何も無い。偶然どこかですれ違っても、お互い気付かないかもしれない。電車がホームに入ってきた。停まっていた人の波が動き出したが、もう一本後の電車でもいいか、と留まった。
私だけの貴重な記憶、precious memories。




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