テレビをつけると、地震・津波・原発事故・計画停電の映像が、ひっきりなしに流されている。その状態が、もう一週間近く続いている。
人と会うと必ず出るのが、「その時、どこで、何をしていたか?」という話題。こんな歴史的大事件が起きると、いつもは近視的に繰り返してきた自分の生活から、ふと世の中の大きな流れを感じ、顔を上げ、辺りを見回し、自分の今の立ち位置を確認したくなる、そんな人間の性が、そういう言葉になって表れるのだろうか。
東京では交通機関が混乱し、節電とも相まって、列車本数が間引かれた駅には、多くの人が長蛇の列を作っている映像が流れている。車も電車もダメなら、自転車や徒歩でと、それでも会社や学校に向かう。未曾有の大惨事が発生し、その影響が我身に影響しているとしても、投げやりにならず、不平も言わず、実直に目の前のなすべき事をまずやろうとする、日本人らしい勤勉さが表れていると思ってしまった。
被災地の映像が流されるたびに、心が痛む。涙が出そうになる。自分が今、あの立場にいたら、と考えてしまう。現在の日本人で、この惨状を見て、心を痛めない人など居ないだろう。皆が同情している。もう少し積極的な人は、募金活動に協力したりする。更に積極的な方は、ボランティアで復旧活動に参加しようとしている方もいるかもしれない。
それでも日本は無くならない。必ず復興する。なぜそう言えるのか。それは私が今、何不自由無く生活できているからだ。おそらく日本の過半数の人がそうで、そして目の前の仕事を投げ出さずに取り組んでいるからだ。そうした、被災地に想いを馳せながらも、いつもと変わらない生活を送り、今自分のなすべき事を行う人がいる限り、それが必ず礎となり、必ず立ち直れると、私は信じている。
心は暗く、活力も乏しくなってしまったが、それでも、恵まれた立場に身に置かれた私は、被災地を想いながらもいつもどおり、自らのなすべき事を、粛々とやっていこうと思っている。それが、ちっとも尊くない支援だと信じて。
 
この災害は「東日本大震災」と名付けられました。
しばらく書く気が失せてしまっていましたが、私はこれからも、このブログを続けます。ゆっくりとでも。