深夜の歩道橋の上で、僕は手摺りに両ヒジを置き、月を見ていた。何を考えることもなく、いや考える意思も無く、ただただ下弦の月を見ていた。本当は下を走る車の騒音の只中の筈なのに、随分静かな夜に溶け込んでいた。その誰も居ない筈の静寂の彼方から、耳元でささやくような声が届いた。
「月を見ているの?」
声の方に顔を向ければ、同じように手摺りに両ヒジを置いて月を見る横顔が、そこに有った。肩を覆うぐらいの緩やかにカーブした髪、20歳代後半、ひょっとして30歳前後だろうか。もちろん見知らぬ女性だった。
「きれいな月ね」
視線を月から外すことなく言う彼女の横顔は、あの月のように白かった。既に落ちる処まで落ちてしまったような僕の心は、返す言葉も出ず、偽りであろう静寂の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
「これからどこへ行くの?」
「安いアパートの狭い部屋です。そこしか居る所が無いので」
「そう」
月を見続ける彼女の横顔は、どこか冷気を含んだ美しさが有った。二人は歩道橋の上で、まだ月を見ていた。
「ねえ、今晩泊めてくれない?」
見ず知らずの女性のそんな言葉など、映画やテレビドラマでしか聞いたことが無い。もちろん想定外に違いない筈だが、この静寂の中で、僕の耳に直接ささやくように届いた声に、変な悪意は感じなかったから、意外にも冷静でいられたのだろう。
「この時間じゃあ終電も終わってるから、帰ることもできないし」
「でも、狭くて汚い部屋ですから」
「いいのいいの、泊まると言っても、朝までそこに居させてくれれば」
一瞬、いや本当は一瞬ではなく、もう少し長い時間かもしれない沈黙の果てに、「はい」という溜息のような言葉が出たと思う。すると、周りの騒音が蘇ってきて、現実の今に戻された。さっきの会話は僕の空想の中のものだろうか。その狭間に戸惑っているうちに、彼女は歩道橋を降り始めた。階段を降り切ったところで振り向いた彼女は、左の口元に血の滲んだ跡があった。
「さっき一緒にいた男に殴られてね。でも一発ケリを返してやったわよ」
そう言って、フフフッと笑った。自室に戻る途中、「缶コーヒー買って」と言うので、自動販売機で二本買った。財布の残金680円が480円になったが、賽銭箱に入れる額が少なくなるだけなので、もう大して気にならなかった。部屋のドアを開けると、湿った空気が満ちていた。濡れた洗濯物がぶら下げているのだから当たり前のことなのだが、この部屋に初めて踏み入れる来客には失礼だと思い、慌てて片付けようとすると、彼女の表情が一変していることに気付いた。
「いいよ、そのままで」
それまでとは明らかにトーンの違う言葉。その言葉に押さえ込まれるように「はい」を押し出して、部屋の隅に立て掛けてあった折り畳み脚の小さなテーブルを、部屋の真ん中に置いた。畳から50cm程上の壁には窓があったが、彼女はその窓を開け、その下に座り込んだ。小さなテーブルを挟んで彼女の正面に座った僕に向けて、彼女は言った。
「どうして死のうと思ったの」
その低い声は、僕の心臓を突き破るかのような、鋭く鋭利だった。そして歩道橋で見たのとは打って変わり、射貫くような厳しい眼だった。
「何故そう分かったんですか?」
「本気で死のうとした経験のある人には分かるものよ。全部話して」
彼女は窓枠を背に座っていたが、僕は何故か正座していた。悪さをした生徒が先生に問い詰められている、それに似た光景だっただろう。出会ってまだ十数分の人に、自らの苦しかった道程を話すことなど、明らかに不自然なはずなのに、それに抗う気持ちが起こらなかったのは、彼女の鋭い眼光に既に白旗を上げてしまっている証左からだろう。それとも本当は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。ポツリポツリと、東京に出て来てからのことを話し始めた。でも途中で、「こんなことをこの人に言うのはおかしい」との考えが過って、何度か言葉を止めるのだが、その都度「いいから続けて」とか「それからどうしたの?」「どう思ったの?」という彼女の促す言葉が入って来るので、続けざるを得なかった。その彼女も、興味深そうに聞く訳でもなく無表情で、途中で「タバコ吸っていい?」と言って、飲み終わったコーヒーの空き缶を灰皿代わりにして、窓からフーっと煙を吐きながら、横顔で聞き続けた。そして何本目かのタバコに火を点けた時、僕は全てを話し終えた。それでも彼女は、まるで能面のように白くて無表情な横顔のままだった。
「それで全部ね」
「はい」
彼女の吐き出す紫煙が窓の外へ流れていく。
「じゃあ、この缶コーヒーを買ってもらって悪かったわね」
「いえ、それはもういいんです。どうせ明日には賽銭箱に入れるつもりでしたから」
この部屋唯一の調度品の時計は、午前3時過ぎを示していた。話し終えた僕は、残った缶コーヒーを飲み干した。
「分かった。もう遅いから、あなたは寝た方がいいわ」
「じゃあ、あまりキレイじゃないけど、布団を引きますから」
「ううん、このままでいいわ。私はしばらく月を眺めているから」
この窓から月なんて見えたかな、この時間だから見えるのかな、と思ったが、緊張と話し終えた疲れと彼女の眼光から解放された安堵感からか、急に睡魔に襲われ、僕はそこから記憶が無くなってしまった。

窓は閉められていたが、すりガラス超しに入ってくる日差しで目が覚めた。僕は畳の上で寝ていた。頭上には、昨日の洗濯物がそのまま干され、時計は午前11時を示していた。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。昨晩の事は何だったのだろう。悪い霊に取りつかれるような憶えは無いが、夢か幻をみたのだろうか。真っ当な精神を保つことができない程に衰弱してしまったのだろうか。昨夜銭湯に行ったままの姿で起き上がって見回せば、あの彼女の姿は無く、いつもの殺風景な部屋のまま、何も変わってなかった。こんな話を誰にしても信じてもらえないだろうし、そんな話をする人もいなければ、その気にもなれない。ポケットの中の財布を取り出し、中身を確認すれば、480円がそのまま有った。ただ、小さなテーブルの上に、昨夜飲んだ缶コーヒーの空き缶が二つとも無く、封を開けてない缶コーヒーが一本有った。
午前の授業はサボってしまったが、午後からの授業には出た。その教室でも、昨日のことが頭から離れない。夢にしては、あまりに鮮明すぎる。もし現実なら、金品を目的に僕に近づいたが、あまりに貧困なので、盗まずに立ち去った、ということだろうか。彼女を悪者に考えれば、そんな推測も成り立つ。いや、それならば何故、僕の身の上話などを長々と聞き出したのか、説明がつかない。歩道橋から飛び降りようとしたぐらいだから、きっと僕の精神は崩壊しかかっていたに違いない。それ故の夢か幻、として片付けるのが適当だろう。200円を失って缶コーヒー一本が残ったことは合点がいかないが、意識や記憶が混濁していた、とすることにした。でも体は正直だ。缶コーヒー一本では空腹は満たされなかったが、それでもぐっすり寝たせいか、幾分体が軽くなったような気がしていた。それとも昨夜、夢の中で想いの全てを話した故のことなのだろうか。
その日の授業が終わったのは午後5時だった。いつもの図書館には寄らず、自室へ向かう電車に乗った。昨日財布に有った全財産1000円は、結局は一日で半分以下の480円になっていた。コレが減っていく恐怖に耐えなければ、と昨日は覚悟していたのだが、今は何だか重荷に感じてしまっている。この残金があの夢か幻の原因なのではないか、とも思っている。なので、早く手放して清々したかった。いつもの駅で降り、いつもの通りを歩き、でも途中から違う道を進んだ。秋晴れの空に夕闇が迫りつつあった。きっともう少し空が見えたのなら、綺麗な夕焼けだったのかもしれない。でも、ここは東京。ビルの谷間の小道では、見える空は限られていた。10分ほど歩いただろうか、周りをビルで囲まれたポツンとある小さな神社にたどり着いた。見回しても誰もいない。賽銭箱の前に立ち、全財産480円を落とし込んだ。予想した躊躇する心など微塵も無く、逆に肩の荷が下りたような、爽やかな感じがした。拝殿に向かって手を合わせたが、はて何を祈るべきか、その事の方が迷った。「願うことと祈ることは違うの。祈ることが無いのは幸せなことなのよ」と、昔誰かから聞いたような記憶があった。今の僕が幸せなんて、笑ってしまいたいほど滑稽なことだが、神様の前だから神妙な面持ちのまま鳥居を出た。さてこれで無一文。足取りは予想以上に軽かったが、ここから3日間は水だけの生活。銭湯にも行けないので、汗をかかないように自室まではゆっくり歩いた。