SSブログ

月のカケラ(新月) [物語]

下弦の月2-1.jpg

深夜の歩道橋の上で、僕は手摺りに両ヒジを置き、月を見ていた。何を考えることもなく、いや考える意思も無く、ただただ下弦の月を見ていた。本当は下を走る車の騒音の只中の筈なのに、随分静かな夜に溶け込んでいた。その誰も居ない筈の静寂の彼方から、耳元でささやくような声が届いた。
「月を見ているの?」
声の方に顔を向ければ、同じように手摺りに両ヒジを置いて月を見る横顔が、そこに有った。肩を覆うぐらいの緩やかにカーブした髪、20歳代後半、ひょっとして30歳前後だろうか。もちろん見知らぬ女性だった。
「きれいな月ね」
視線を月から外すことなく言う彼女の横顔は、あの月のように白かった。既に落ちる処まで落ちてしまったような僕の心は、返す言葉も出ず、偽りであろう静寂の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
「これからどこへ行くの?」
「安いアパートの狭い部屋です。そこしか居る所が無いので」
「そう」
月を見続ける彼女の横顔は、どこか冷気を含んだ美しさが有った。二人は歩道橋の上で、まだ月を見ていた。
「ねえ、今晩泊めてくれない?」
見ず知らずの女性のそんな言葉など、映画やテレビドラマでしか聞いたことが無い。もちろん想定外に違いない筈だが、この静寂の中で、僕の耳に直接ささやくように届いた声に、変な悪意は感じなかったから、意外にも冷静でいられたのだろう。
「この時間じゃあ終電も終わってるから、帰ることもできないし」
「でも、狭くて汚い部屋ですから」
「いいのいいの、泊まると言っても、朝までそこに居させてくれれば」
一瞬、いや本当は一瞬ではなく、もう少し長い時間かもしれない沈黙の果てに、「はい」という溜息のような言葉が出たと思う。すると、周りの騒音が蘇ってきて、現実の今に戻された。さっきの会話は僕の空想の中のものだろうか。その狭間に戸惑っているうちに、彼女は歩道橋を降り始めた。階段を降り切ったところで振り向いた彼女は、左の口元に血の滲んだ跡があった。
「さっき一緒にいた男に殴られてね。でも一発ケリを返してやったわよ」
そう言って、フフフッと笑った。自室に戻る途中、「缶コーヒー買って」と言うので、自動販売機で二本買った。財布の残金680円が480円になったが、賽銭箱に入れる額が少なくなるだけなので、もう大して気にならなかった。部屋のドアを開けると、湿った空気が満ちていた。濡れた洗濯物がぶら下げているのだから当たり前のことなのだが、この部屋に初めて踏み入れる来客には失礼だと思い、慌てて片付けようとすると、彼女の表情が一変していることに気付いた。
「いいよ、そのままで」
それまでとは明らかにトーンの違う言葉。その言葉に押さえ込まれるように「はい」を押し出して、部屋の隅に立て掛けてあった折り畳み脚の小さなテーブルを、部屋の真ん中に置いた。畳から50cm程上の壁には窓があったが、彼女はその窓を開け、その下に座り込んだ。小さなテーブルを挟んで彼女の正面に座った僕に向けて、彼女は言った。
「どうして死のうと思ったの」
その低い声は、僕の心臓を突き破るかのような、鋭く鋭利だった。そして歩道橋で見たのとは打って変わり、射貫くような厳しい眼だった。
「何故そう分かったんですか?」
「本気で死のうとした経験のある人には分かるものよ。全部話して」
彼女は窓枠を背に座っていたが、僕は何故か正座していた。悪さをした生徒が先生に問い詰められている、それに似た光景だっただろう。出会ってまだ十数分の人に、自らの苦しかった道程を話すことなど、明らかに不自然なはずなのに、それに抗う気持ちが起こらなかったのは、彼女の鋭い眼光に既に白旗を上げてしまっている証左からだろう。それとも本当は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。ポツリポツリと、東京に出て来てからのことを話し始めた。でも途中で、「こんなことをこの人に言うのはおかしい」との考えが過って、何度か言葉を止めるのだが、その都度「いいから続けて」とか「それからどうしたの?」「どう思ったの?」という彼女の促す言葉が入って来るので、続けざるを得なかった。その彼女も、興味深そうに聞く訳でもなく無表情で、途中で「タバコ吸っていい?」と言って、飲み終わったコーヒーの空き缶を灰皿代わりにして、窓からフーっと煙を吐きながら、横顔で聞き続けた。そして何本目かのタバコに火を点けた時、僕は全てを話し終えた。それでも彼女は、まるで能面のように白くて無表情な横顔のままだった。
「それで全部ね」
「はい」
彼女の吐き出す紫煙が窓の外へ流れていく。
「じゃあ、この缶コーヒーを買ってもらって悪かったわね」
「いえ、それはもういいんです。どうせ明日には賽銭箱に入れるつもりでしたから」
この部屋唯一の調度品の時計は、午前3時過ぎを示していた。話し終えた僕は、残った缶コーヒーを飲み干した。
「分かった。もう遅いから、あなたは寝た方がいいわ」
「じゃあ、あまりキレイじゃないけど、布団を引きますから」
「ううん、このままでいいわ。私はしばらく月を眺めているから」
この窓から月なんて見えたかな、この時間だから見えるのかな、と思ったが、緊張と話し終えた疲れと彼女の眼光から解放された安堵感からか、急に睡魔に襲われ、僕はそこから記憶が無くなってしまった。

窓は閉められていたが、すりガラス超しに入ってくる日差しで目が覚めた。僕は畳の上で寝ていた。頭上には、昨日の洗濯物がそのまま干され、時計は午前11時を示していた。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。昨晩の事は何だったのだろう。悪い霊に取りつかれるような憶えは無いが、夢か幻をみたのだろうか。真っ当な精神を保つことができない程に衰弱してしまったのだろうか。昨夜銭湯に行ったままの姿で起き上がって見回せば、あの彼女の姿は無く、いつもの殺風景な部屋のまま、何も変わってなかった。こんな話を誰にしても信じてもらえないだろうし、そんな話をする人もいなければ、その気にもなれない。ポケットの中の財布を取り出し、中身を確認すれば、480円がそのまま有った。ただ、小さなテーブルの上に、昨夜飲んだ缶コーヒーの空き缶が二つとも無く、封を開けてない缶コーヒーが一本有った。
午前の授業はサボってしまったが、午後からの授業には出た。その教室でも、昨日のことが頭から離れない。夢にしては、あまりに鮮明すぎる。もし現実なら、金品を目的に僕に近づいたが、あまりに貧困なので、盗まずに立ち去った、ということだろうか。彼女を悪者に考えれば、そんな推測も成り立つ。いや、それならば何故、僕の身の上話などを長々と聞き出したのか、説明がつかない。歩道橋から飛び降りようとしたぐらいだから、きっと僕の精神は崩壊しかかっていたに違いない。それ故の夢か幻、として片付けるのが適当だろう。200円を失って缶コーヒー一本が残ったことは合点がいかないが、意識や記憶が混濁していた、とすることにした。でも体は正直だ。缶コーヒー一本では空腹は満たされなかったが、それでもぐっすり寝たせいか、幾分体が軽くなったような気がしていた。それとも昨夜、夢の中で想いの全てを話した故のことなのだろうか。
その日の授業が終わったのは午後5時だった。いつもの図書館には寄らず、自室へ向かう電車に乗った。昨日財布に有った全財産1000円は、結局は一日で半分以下の480円になっていた。コレが減っていく恐怖に耐えなければ、と昨日は覚悟していたのだが、今は何だか重荷に感じてしまっている。この残金があの夢か幻の原因なのではないか、とも思っている。なので、早く手放して清々したかった。いつもの駅で降り、いつもの通りを歩き、でも途中から違う道を進んだ。秋晴れの空に夕闇が迫りつつあった。きっともう少し空が見えたのなら、綺麗な夕焼けだったのかもしれない。でも、ここは東京。ビルの谷間の小道では、見える空は限られていた。10分ほど歩いただろうか、周りをビルで囲まれたポツンとある小さな神社にたどり着いた。見回しても誰もいない。賽銭箱の前に立ち、全財産480円を落とし込んだ。予想した躊躇する心など微塵も無く、逆に肩の荷が下りたような、爽やかな感じがした。拝殿に向かって手を合わせたが、はて何を祈るべきか、その事の方が迷った。「願うことと祈ることは違うの。祈ることが無いのは幸せなことなのよ」と、昔誰かから聞いたような記憶があった。今の僕が幸せなんて、笑ってしまいたいほど滑稽なことだが、神様の前だから神妙な面持ちのまま鳥居を出た。さてこれで無一文。足取りは予想以上に軽かったが、ここから3日間は水だけの生活。銭湯にも行けないので、汗をかかないように自室まではゆっくり歩いた。

下弦の月2-2.jpg







コインランドリーの横を通り過ぎ、この小さな公園を斜めに横切れば、自室までの近道だ。陽は落ち、公園の街灯は既に点いていた。昨日は此処のブランコに乗ったんだっけ、と近づいて見れば、そのブランコが揺れていた。えっ、と立ち止まってしまった。ブランコに乗っているのは、昨夜の彼女ではないか。その彼女も、立ちすくむ僕に気付いたようだ。
「おそーい、まったく!」
周りに人が居ないことを知ってか、短く鋭い言葉が僕に向けられた。更に近づくと、間違いなく彼女だった。あれは夢か幻、ということにしたのに、驚きと同時に、また頭が混濁してしまった。
「まったく、待ちくたびれたわよ」
反射的につい「すみません」と言ってしまったが、薄暗闇の中で彼女と僕の二人きり、昨晩と同じだ。またどこか違う世界に足を踏み入れてしまったのだろうか。
「寒くなる前に行こう。荷物持ってね」
ブランコの支柱脇に置かれた大きなビニール袋二つを持って、彼女の後に続いた。彼女は迷うことなく真っすぐに僕の部屋への道を歩いていく。やはり昨夜のことは現実なのだろうか。いくら目を凝らしても、前を歩く彼女が幻や亡霊には到底見えなかった。ただ、昨夜見た彼女の口元には殴られたアザが有った筈なのに、今は無い。一晩で消えるものなのだろうか、とは思った。
部屋に入って大きな二つの袋を床に置くと、彼女はその中から箱を取り出した。
「ここってガスが無いでしょ。コレをセットして」
渡されたのはカセットコンロとガスボンベ。急いで窓を開けて湿った空気を抜き、その元凶である干されたままの洗濯物を片付けた。小さなテーブルの上にコンロを置けば、流し台の方から丸い鉄鍋がやって来た。「火をつけてよ」と言われるままにしたが、後から後から食材がその鍋に放り込まれ、牛肉の煮える香りが立ち込めれば、久しぶりに僕のお腹がグーっと鳴った。
「さて、今夜はすき焼き。上手くできたかなあ」
そう言う彼女は、昨夜の無表情とは打って変わり、どこか嬉々とした表情だった。
「食器は良いのが無かったから、今日はコレで我慢してね」
割り箸とプラスチックの小鉢に、煮えた牛肉を山盛りにして手渡された。言われるままに一口。美味い。これまで19年間生きてきて、これほど美味いと思ったことは無い、と思えるほど美味い。この肉にしても、スーパーの安売りとは明らかに違う、上等なものであることは僕にでも分かる。そんな僕の顔を覗き込むようにして見る彼女は、
「どう? ちょっと味が濃い?」
と言ったが、首を横に振れば、安心したように微笑んだ。言葉が出なかった。言うべき言葉が見つからなかった。その代わり、何故だか涙が溢れてきた。すき焼きの肉を口に入れながら、僕は泣いていた。
「泣いてたら美味しそうに見えないよ。男の子なんだからガッツリ食べないと」
彼女はさっきのビニール袋から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。
「あっ、そうだ。君は飲めないんだっけ。私は要らないけど、ご飯が欲しかったね」
そう言って口元で笑うと、美味しそうにビールを喉に通した。この期に及んでも、僕は何一つ言葉を発せられず、ただ涙と共に牛肉を頬張った。口から喉を通り、胃袋の中に納まっていく様が如実に感じられ、自分が生きていることを知らされた。もし昨夜、別の世界に行っていたら、こんな美味しいものを頂けることも無かった。それを考えれば、情けないほど涙が溢れてきた。そして、食べる事は生きる事、人は、いや全ての生物は生きるために食べるのだと思った。今この瞬間、僕は確かに生きていた。それを傍らで、彼女は満足気に見ていた。
「残しても仕方ないから、全部食べちゃってよ」
彼女が二本目の缶ビールを開ける時にそう言った。そして三本目を開けると、
「どう? 飲んでみない?」
手渡されたので、ゴクリと一口、そしてもう一口飲んでみた。その途端、キャハハという彼女の笑い声。たぶん僕は、よっぽど変な顔をしたに違いない。
「わかった分かった、もういいよ。後は私が飲むから」
僕の手から缶ビールを奪い返すと、美味しそうにゴクリと飲んだ。確かに、このすき焼きに比べればビールは、天と地ほど違う味に思えたのは確かなことだった。
僕の胃袋の大きさを測って知っていた訳ではないだろうが、残さず全て食べ終わると、ちょうど満腹になった。その頃には涙もやっと収まり、逆に「なぜ?」という疑問が頭の中を渦巻いていた。でもそれは、すぐに解消に向かった。
「どう? お腹いっぱいになった?」
「はい、こんな美味しいものを食べたのは生まれて初めてです」
「それは大げさねぇ」
「でもどうして?」と僕が問う言葉を出しかけた時、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「さ~、それじゃあ全部食べたことだし、今度は私のお願いを聞いてもらおうかな」
僕は背筋を正した。食べたことは間違いないし、後悔もしていない。彼女の願いが何なのか見当もつかないが、聞く義務があると覚悟を決めた。
「それじゃあさあ、しばらく私をココに置いて」
その言葉の意味を咄嗟には理解できなかった。ココに置いて、というのは、この部屋に二人で居る、二人で生活するということ? こんな部屋なのに? 何を言っているんだろう、と思ったし、僕の貧しい話を全て聞いた筈なのに、どうしてそんな風に事が成るのか理解できず、どう返答してよいのか分からなかった。
「いいでしょう?」
昨夜とは正反対に、頬に笑みを浮かべながら、僕の顔を覗き込むように彼女は言った。冗談を言われてる? からかわれている? だって、こんな貧乏学生の貧相な狭い部屋に、こんな大人の女性が住みたがるのは明らかにおかしいだろう。冗談ならそうと早く言って欲しいものだ。しかし、彼女が僕にしてくれたことを思えば、失礼なことは言えない。そんな僕が返答に困っていると、それを面白がるかのように彼女は言った。
「じゃあ、OKということで、よろしくね」
キツネにつままれる、とはこんな事なのだろう。意外過ぎて何が何だかわからず、ポカンとしてしまった。止まった思考が再度動いた末に出たのは、それならば今夜こそ布団を敷かないと、という実に愚直な考えだった。立ち上がろうとしたら、ぐらッと足元から力が抜けた。顔が熱かった。さっきのビールのせいだろうか、ドスンと尻餅をついてしまった。
「突然でビックリしたでしょ。気にしないで、私はもう少し飲んでるから」
彼女は傍らに置いたバックからタバコを取り出すと、昨夜のように窓に向かってフッーっと煙を吐いた。その紫煙で霞む彼女の顔を見ていると、次第に遠ざかり、そこで僕の意識も薄れていった。

窓は閉められていたが、すりガラス超しに入ってくる日差しで目が覚めた。僕は畳の上で寝ていた。ビニール紐が張ってあるのが見え、時計は午前8時を示していた。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。昨晩の事は何だったのだろう。また、夢か幻をみたのだろうか。起き上がって見回せば、また彼女の姿は無く、いつもの殺風景な部屋のまま。いや、よく見れば違った所もあった。折り畳み脚の小さなテーブルの上に、ハガキ程の大きさのメモが置かれていた。
「今日、荷物が届くから受け取ってね 弓子」
そういえば、彼女の名前も知らなかったことに、今になって気付いた。それにしても分からない。あの歩道橋に行ってから、不思議なことが多すぎる。顔を洗おうと流し台に行けば、昨夜の食器や鉄鍋がきれいに洗われて、片付けられていた。それを見ると、現実だったんだ、と思わせられる。しかし・・・、次から次へと疑問が湧いてくる。
その日は日曜日で大学は休み。彼女のメモでは荷物が届くらしいので、一日中部屋に居ることにする。無一文では何をすることもできず、その暇が余計に記憶を鮮明にしたが、いくら考えても納得できそうな回答は出てこない。不思議な彼女が二晩続けてやって来たことは、間違いないらしい。そしてそれが、これから先も続くのだろうか。これを現実の事と受け止めるべきなのだろうか。
この部屋にはチャイムもインターフォンも無いので、小さな玄関ドアをトントンとノックされた。そこに立っていたのは、電気店の配送係の男性二人だった。「こんにちは」の声と共に段ボール箱を持って上がり込んだと思えば、テキパキと荷を解いて中身を出す。それは、小型の2ドア冷蔵庫と電子レンジだった。「設置はココでいいですよね」と言うので、「はい」と答えたが、前住人もそこに置いていたであろう跡の付いた場所に鎮座すれば、この前時代的とも思える部屋が、一気に今風になったように思えた。箱や梱包材を全て持って、「ありがとうございました」の声と共に去っていった電気店の二人。あっけにとられる、とは、まさにこの時の僕そのもの。マジマジとこの二つの電気製品を眺め、何度も触り、夢幻の品ではないことを確かめてしまっていた。
また小さな玄関ドアをトントンとノックされた。二度目にやって来たのは、宅配便の男性だった。持ってきたのは大きなスーツケース。彼もそれを置くと、「ありがとうございました」の声と共に、足早に去っていった。これはたぶん彼女、弓子さんのものだろう。これがここに有る、ということは、昨晩の彼女の言葉は、やはり本当なのだろうか。そのスーツケースには、配送用のタグが付けられていた。それを見れば彼女のフルネームと現住所が分かるかもしれない、と思い、恐る恐る手に取って見れば、「届け先」はこの部屋の住所と僕の名前が書かれていた。その下の送り主の欄には「同上」とだけ書かれていた。彼女は僕のことを知っていて、僕は彼女のことを知らない。マジマジとその荷を見る僕は、混沌と不安の中に居た。
三度目に部屋のドアをノックされたのは、夕方のことだった。三人目は彼女だった。また大きなビニール袋を持って上がり込む。
「来てるじゃない、電源入ってる?」
無邪気な表情で冷蔵庫を覗きこむ。
「ちょっと待っててね」
小さな流し台に向かい、袋から食材を取り出しては、まな板の上に並べ始めた彼女。その後姿に、一つ深呼吸をしてから、意を決して言った。
「ありがとうございます。こんな僕に、こんなにも良くしてくれて、感謝しています。でも今の僕には、それにお返しできるものが無い。いえ、いづれきっと少しずつでもお返ししますから・・・」
「随分とつまらないことを言ってくれるわね」
明らかに怒気を含んだ言葉が返ってきた。振り返ったその顔は白かったが、夜叉のように怖かった。緊張と怯えで、背筋が凍りそうに固まった。
「いい? あなたはこの部屋の家賃を払っている。水道も電気もあなたが払っている。私もこのくらいしないと、この部屋に居られないでしょ!」
「はい」と言ったと思う。
「つまらないことを気にするのは金輪際やめて!」
「すみません」と言ったと思う。二人の距離は1メートルほどしかなかったが、その間には途方もない緊張感が有った。しかし数秒後には、幸いにもそれは氷解した。
「あら、脅しちゃった?」
右手に出刃包丁を持って僕に向けているのに気付いた彼女は、フフフっと笑った。僕もそこで、たぶん溜息をついたと思う。
「それより昨日みたいに待たされるのはイヤだから、この部屋の合鍵を作ってきてよ。駅前にそんな店が有ったでしょ」
彼女はポケットから小銭を一掴み出して、僕に渡した。その時になって、彼女がジーンズを履いていること、脚が細くて長いことに気が付いた。部屋を出て駅前に向かって歩く。歩けば歩くほど、あの緊張感は霧散していった。もう考え過ぎるのは止めよう、どうせ無一文で、何も無い僕なのだから。流れに身を任せるしかないと思うから。
部屋に戻ると、彼女は思案気に鍋を見つめていた。
「おでん作ったけど、わたし、じっくり煮込まないと嫌なのよね」
出汁の香りが満ちていた。
「大根は当然として、ハンペンやコンニャクも柔らかすぎるほど煮込まないと嫌なのよね」
今でも十分美味しそうに思えたので、「はあ」と曖昧な言葉が出てしまった。
「よし、このまま弱火で煮ておいて、その間にお風呂に行こう」
彼女は傍らに置いてあったスーツケースを開けて、タオルや着替えを取り出した。
「あっそうだ、お金無いんだったわね」
「さっきの合鍵のお釣りが残ってますけど」
ポケットから出した合鍵と残金を見せると、合鍵だけを取って、
「それで行けるわね」
部屋を出て歩き出す。いかにも颯爽とした、女性としては早い足取りで、数歩前を進んでいく。あの歩道橋が見えた。ここから全てが始まったんだ、と思うと、つい立ち止まりたくもなったが、そんな意を微塵も介さず彼女は、どんどん先を歩いていく。銭湯に着けば振り返って言った。
「この前で待合わせって、いかにもって感じでしょ。鍵を持ってるから、出たらそのまま部屋に戻るからね」
それだけ告げて、女湯の暖簾(のれん)をくぐって消えた。
待つのが嫌いと言った彼女を待たせるわけにはいかない。手早く銭湯を済ませて足早に部屋に戻る。幸い彼女はまだ着いていなかったが、僕が戻ったのをどこかで見ていたようなタイミングで、部屋に入ってきた。
「うまく煮えてるかな」
小さなテーブルの上の鍋蓋を開ける。
「あーっ、も~」
彼女の声が響く。
「ガスボンベが途中で無くなって、火が消えてる。これじゃあ中途半端」
「でも、十分美味しそうですけど」
彼女の尖がった口先はなかなか収まらない。
「まあ仕方ない、煮ながらゆっくり食べる事にしようか」
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、鍋の前に座る彼女。そこから長い夜が始まった。たくさん話した中で、彼女の名前が「望月弓子」なのを初めて聞いた。
「歳はナイショネ」
名前以外、彼女は自分のことをほとんど話さず、僕は聞かれるままに何でも話した。どうせ嘘をついたところで、見抜かれることは分かっていたから。
その夜、僕たちは初めて肌を重ねた。白く、どこかヒンヤリした肌だったが、それはたぶん自分の体が熱かったせいだろう。

下弦の月2-3.jpg


nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 2

コメントの受付は締め切りました
wataru-wata

ジュニアユース様、こんにちは。

続き、一気に読ませていただきました!

そして、そして続きが気になります!!!

ただただ、続きが気になる事を伝えておきますね
by wataru-wata (2019-12-02 14:39) 

ジュニアユース

wataru-wataさん、こんにちは。
この長い話を読んで頂き、ありがとうございます。
もちろん、この続きは有ります。
3回に分けて載せる予定で書きましたから、次回で最後です。
お付き合いいただければ、幸いです。

by ジュニアユース (2019-12-02 21:35)