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「青春の影」 [本・映画・アニメ・詩歌]

このブログの過去記事で書いたことがありますが、私が高校生だった頃、一年に一度我が街に必ずやって来てくれる、あるバンドのファンでした。そのバンドの名前は、「Tulip(チューリップ)」。田舎の、さほど大きくもなく、音響効果も怪しい、でも我が街で唯一そういったコンサートを行える会場に初めて足を踏み入れ、レコードとは違う生のライブというものに感動してしまった当時の私でした。翌年もそのチューリップのライブが行われるというので、(私が校内で宣伝したこともあって)高校の友人たちを引き連れて行くことになったのですが、当時は「チケットぴあ」など無い時代です。友人達の分も含めて主催の「労音」事務所まで買いに行きました。その際に労音の方と親しくなり、「当日配られる冊子に、ファンの声として文章を書いてみないか」との誘いを受け、自分の書いた文章が初めて公の方に読まれる出来事になったのを、今でもしっかり記憶しています。
それから随分な月日が流れ、私は音楽とは疎遠になってしまいましたが、このバンド「チューリップ」がデビュー50周年となり、全国ツアーを開催しているとのニュースを見ました。50年とは半世紀です。途中、活動休止時期もあったようですが、それでも70歳を過ぎたオリジナルメンバーで全国ツアーを行うことに、いささかの感動を憶えたと同時に、上記のような過去話を私に蘇らせてくれたのでした。今年最後にご紹介させていただくのは、そんなチューリップの代表曲、1974年にリリースされたアルバム「TAKE OFF」の中の一曲で、後にシングル発売された、「青春の影」(作詞・作曲:財津和夫)です。

青春の影.jpg


君の心へ続く長い一本道は
いつも僕を勇気づけた
とてもとても険しく細い道だったけど
今 君を迎えに行こう
自分の大きな夢を追うことが
今までの僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし


この詩の導入部である一番の歌詞は、ストレートな表現で情景を設定しています。「今 君を迎えに行こう」は、この詩の主人公が「君」と呼ぶ彼女へのプロポーズだと思います。人生を道に例えたこの詩で、「君の心へ続く長い一本道」は彼女と出会う前のことなのか、彼女と出会ってからプロポーズをするまでのことなのか、ここではハッキリしませんが、いづれにせよ、彼女と共に歩むことを決めたことが、自分の夢や仕事よりも大切なことだと綴っています。そしてそれを「生きるしるし」と言っているところに、彼女を幸せにすることによって自分の人生の価値が証明されるかのような、深い想いが示されているように思えます。

愛を知ったために涙が運ばれて
君の瞳をこぼれたとき
恋の喜びは愛の厳しさへの
かけ橋にすぎないと
ただ風の中にたたずんで
君はやがて見つけていった
ただ風に涙をあずけて
君は女になっていった


二番の歌詞では、「君」と呼ぶ彼女に視点が向けられています。ここでは、「愛」と「恋」が明確に区別されている事に気付かされます。恋は楽しさや嬉しさを伴って現れますが、それを愛へと昇華させるには、時に現実の厳しさに対抗していかねばならなかったり、時に悲しみや苦しさに耐えねばならなかったりと、決して安易な道ではない、と綴っています。ここに出てくる「風」は、現実や世間、世の中の流れを恣意したものでしょう。今まで流してきた涙を「あずける」とは、安易に泣くことではなく、愛することの厳しさをも受け止められる大人の女性へと成長したということでしょう。その彼女の変化を通じて、恋からより深い愛へと進展を表し、それを「女になっていった」と綴っています。

君の家へ続くあの道を
今 足下に確かめて
今日から君はただの女
今日から僕はただの男


ラストの「今日からは君はただの女 今日から僕はただの男」の詞は、この楽曲を、別れの曲?と思わせるかもしれません。けれど詩全体を見返せば、決してそうではないことが分かります。そこに、この詩の深みがあると思います。人それぞれの解釈は有るでしょうが私は、恋を楽しむだけの少女が愛する厳しさを知った大人の女に、自分の夢ばかりを追っていた少年が愛する人を幸せにすることを願う大人の男に、二人がそうなって歩んで行く姿を想像してしまいます。これは二人の人生の新たな旅立ちの詩でしょう。
この詩の歌詞の中に、「青春」「影」という言葉は出てきません。ではタイトルに「青春の影」と付けたのは、どういった意味が込められているのでしょうか? この詩を結婚へ向かう二人を描いたものだとして、そこにハッピー!ハッピー!な感じを私にはどうも受け取れない。むしろどこか切なくて、でも決意みたいなものを感じてしまう。それは、一人を謳歌した独身を手放す喪失感と家庭を築く責任感の存在故のことなのかもしれません。もちろん結婚に至る事象は人それぞれで、幸福感のみで突き進むカップルがいてもおかしくない。でもここで、「ただの女」「ただの男」となることを、別れではなく人としての成長の果ての結婚だと考えるなら、そこで別れるのは無邪気な青春なのではないか、と思いました。誰しも人生の中で一番輝いていた青春時代、その光が当たる反対側に目立たず、でもしっかりと存在する影を、「恋」ではなく「愛」だと例えているのではないか、と思っています。

「チューリップ」は、福岡に住んでいた財津和夫氏がビートルズに憧れて結成したバンドです。上京してレコードデビューを果たしたものの売れなくて、苦しい時期を過ごしていた5人が1973年の「心の旅」のヒットにより、ようやく地に着いた活動をできるようになりました。しかし当時、ニューミュージック系のポップスグループと位置付けられたことに抵抗感も有り、より自分達らしい音楽活動をしたいという意味で、ビートルズの「The Long And Winding Road」をモチーフとしたこのバラードを発表したのでした。それには周りからの反対もあったようですが、今では様々なアーティストにカバーされているように、多くのチューリップ楽曲の中で名曲と言って過言ではないと思います。ちなみに、アルバム「TAKE OFF」に収録された同曲と、後にシングルカットされた同曲ではアレンジが異なっています。私は前者の方が好きで、より「The Long And Winding Road」の雰囲気に近いと思っています。

半世紀も前に発表された詩を紹介するには、確かに今更感があります。けれど、私の心の中のチューリップというバンドには、「心の旅」よりこの「青春の影」のイメージが今も色濃く残っているので、今年最後の記事として紹介させていただきました。
来る年が皆様の光輝く一年になりますよう、お祈り申し上げ、今年の締めとさせていただきます。ありがとうございました。




Tulip「青春の影」


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「神は我を見捨てず・・・」 [本・映画・アニメ・詩歌]

加齢のせいでしょうか、どうも昔聞いたフレーズが頭の中でフッと蘇ることがあります。でも、「はて、どこで聞いた? どこで読んだ?」と記憶を辿らなければならないのは、やっぱり歳のせいでしょうかね。このフレーズも何処から出てきたのかすっかり忘れていましたが、現在はインターネットという便利道具がありますから、簡単に検索できます。で、分かりました。1980年代に連載されていた漫画「ふたり鷹」(新谷かおる氏作)の最終盤に出てくるフレーズでした。
同じ日に同じ病院で生まれ、同じ「鷹」という名前を持つ沢渡鷹と東条鷹を主人公に、二輪の耐久レースを戦うようになる物語です。実在人物も登場しますし、シビアなレースの世界の中で、新谷かおる氏特有のコミカル感もあって、なかなか楽しめます。我が家には文庫本サイズ全11巻がずいぶん前から鎮座しております(今回取り出したら結構日焼けしてましたが)。この物語の終盤、二人の鷹は同じチームで世界耐久選手権を戦うのですが、年間優勝の掛かったボルドール24時間レースにおいて東条鷹が転倒してしまい、その再スタートの際に出てきたのが、この「神は我を見捨てず、ふたたび剣をとりて・・・戦え、とのたもうた!!」のフレーズでした。その後は修理の為に時間を取られ、トップと11周差でコースインしますが、デビッド・アルダナ(実在のレーサー)と沢渡鷹の鬼神のような追い上げで、最後は東条鷹のライディングで優勝を勝ち取り、4年に渡る物語を終えたのでした。

神は我を見捨てず1.jpg

まあ、いくら耐久レースとはいえ、11周もの差を乗り越えて優勝するなど、漫画の世界しか成し得ないとは思います。けれど、どうもこういった話にのめり込むと熱いものがあります。この最終戦は物語最終盤ということもあって、過去の登場人物やその背景なども描かれていたりして、ラストに向けての盛り上りもあって、愛読者には刺さる内容なので、きっと私の頭の片隅にこのフレーズが残ったのだと思います。そういえば同じバイクレースを舞台にした漫画「バリバリ伝説」(過去にこの前のブログでも紹介しました)でも、巨摩郡のノービス時代に出場した鈴鹿4時間耐久レースで、ペアライダーの聖秀吉が転倒して、バイクを押してピットに戻り、周回遅れになりながらもその後の怒涛の追い上げで優勝したシーンは前半のハイライトだったと思います。また、映画「汚れた英雄」(これも過去に紹介しました)でも、シリーズ最終戦で北野晶夫が転倒しながらも最後には優勝してシリーズチャンピオンになって、世界へ飛び立って行ったシーンもありました。バイクレース作品だけでもそんなシーンが有りますから、もっと裾野を広げてスポーツを題材とした作品などでは、最終盤に盛り上げる常套手段なのかもしれませんし、逆に惜しくも願い届かずに余韻を残す最後もまた、よくある形なのかもしれません。
漫画であれ、小説であれ、映画であれ、いづれにせよフィクションで、読む者・見る者に疑似体験を抱かせ、その琴線に触れさせることで価値や評価を得る作品なのですから、もし気に入った作品、興味を持った作品に出合えたのなら、冷静に「そんなバカな」と思わずに、素直に感動してみるのは悪いことではないと思います。こんな情報過多の時代で、その殆どが何ら触れられず通り過ぎ、万が一自らが触れられてもスルーするものが多いのに、僅かでも良い感情を湧き立たせてくれた作品を見つけられたなら、それはきっと貴重だと思うからです。

神は我を見捨てず2.jpg



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大河ドラマ「どうする家康」 [本・映画・アニメ・詩歌]

大河ドラマ1.jpg

「大河ドラマ」は1963年から放送されているNHKでも著名な時代劇で、主に日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇ですね。原則として1話45分で日曜夜に約1年間(50話前後)を通して放送され、その舞台となった地方や史跡などが町興しに役立ったり、観光の目玉になったりして、朝の連続テレビ小説と並んでNHKの看板番組の一つだと思います。62作目にあたる今年は「どうする家康」と言う題名で、徳川家康の生涯を描いています。民放なら視聴率が悪ければ打ち切りになるところ、この大河ドラマは放送枠1年が確約されている点と、国営放送のNHKという点もあって、その内容と視聴率が毎度話題になります。私は特別「大河ファン」という訳でもありませんが、過去何度か欠かさず見続けた作品もありました。が、ここ最近はご無沙汰していました。今年の「どうする家康」も最初は見ていなかったのですが、ネット上で話題になる記事が多くて、先月あたりから見続けています。歴史ものは嫌いではありませんが、歴史学者でも歴史考察家でもない一般人の私が、この「どうする家康」を見てちょっと思いついたことを書かせていただきます。
「ああ大河ドラマでも、NHKでも、視聴率を気にして作品造りをしているのだなあ」というのが第一印象です。明治維新前後でもまだそうだったので、こんな戦国時代では尚更ですが、基本的に男尊女卑の時代です。故に時代や世の中を動かしていくのは男性の登場人物であるはずで、女性はあくまで脇役でしかなかった時代です(一部例外もあるでしょうが)。その割に、女性の登場人物が多くて、それを描くシーンが多すぎます。チャンネル選択の主導権を「お父さん」が握っていた昭和の時代の大河は、まだこの傾向が薄かったように記憶していますが、今や視聴者に女性が占める割合が大きく、しかも男女平等がしっかり染み込んだ女性視聴者層を掴まなければ視聴率が稼げない時代ですから、如何に戦国時代を描くといえど、登場女性にカメラを向ける時間の多い作品になるのは、今の時代ではしかたないのかもしれません。
私は現代に生きる者ですので、別に女性蔑視や女性軽視するつもりはないのですが、女性主人公の作品や女性の活躍にスポットを当てた作品は別として、こういった時代劇に現代のホームドラマ的な要素を組み入れるのは、どうもフィクション感を感じざるを得ません。まあ、大河ドラマとてドキュメンタリーではなくフィクションであって、あくまでドラマであり、テレビ番組である以上は演出も必要である、ということは承知しているつもりなのですがネ。実は私、この「どうする家康」で徳川家康の正室を有村架純さんが演じるというので、史実で伝えられている瀬名(築山殿)をどのように色付けして描くのか注目していました。ちょうど私が見始めた先月末辺りから、その「築山殿事件」「信康事件」が放送されたので見ていたのですが、まさかの「慈愛の国構想」とは。
群雄割拠する戦国時代において、奪い合うのではなく与え合う、同一通貨を使って経済圏を新築する、というのは、戦の無い世を目指す、皆が平和に暮らせる時代を作る、という点では、現代人にとっても耳障りの良い話に思えます。確かにそれは、現代において「EU圏」という成功例もあります。しかし、そのEU圏設立にせよ、今に至る道程は極めて難しく(イギリスの加入離脱などもありましたね)、情報網や移動手段の発達した現代でも時間もかかりました。それを情報や移動が未発達で、年中隣国と戦をしている時代に、明日は生きているか、国が滅んでしまうか、という時代に、まだ小国に過ぎなかった徳川家が主導して行うなど、ちょっと考えれば絵空事です。戦というものを実体験していない当時の女子供ならまだしも、殺し合って生き抜いてきた武田家の智士である穴山信君までも片棒を担ぐとは、ちょっと意外以上です。そして徳川家康自身もそれに乗ってしまうとは、とても後に天下人になる器とは思えない。武田勝頼や織田信長も出てきますが、彼らの反応の方が、つまりコレを利用して勢力拡大を狙うという方が、当時のリアリティ的にアリだと思いました。故に、現代人向け、今の女性視聴者向け、そして有村架純さん向けの描き方だなあ、と思い至った次第です。
ただ、史実(その史実の解釈も年々変わっていますが)に忠実過ぎると、暗く重い物語になってしまい、それは「骨太」という賛辞は得られても、視聴者受けではどうでしょう。先にも書いたように、ドキュメンタリーではなくテレビドラマですから、たとえば瀬名が生き続けるといったような、史実と大きく離れた話ではなく、「もしかしたらこうだったかも」といった新解釈話に持って行くのは、あながち間違ってはいないと思います。過去の大河ドラマに徳川家康は何度も登場して描かれていますが、それらと違った家康像を目指して脚本家の方が頑張っているのならば、こうしたツッコミどころの有る点は既に想定内で、それはそれで良いのかもしれません。なぜなら、一般視聴者の私がこうした記事を書くこと自体が、この大河ドラマ「どうする家康」のどこかに惹かれている証拠なのかもしれませんから。
さてさて、まもなく戦国時代のビックイベント「本能寺の変」が描かれることになりますが、今までの通説や現代の史実解釈とどう違うのか、違わないのか、ちょっと注目してみます。

(以上、超個人的な感想でした)



過去作は・・・


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