この曲「ファイト!」は、中島みゆき作詞作曲で、1983年発売された10作目のオリジナルアルバム「予感」の最後の曲として収録されたものです。後に、テレビドラマの主題歌としてヒットした「空と君のあいだ」とカップリングされ、両面A曲として1994年に発売されてミリオンセラーを達成しましたから、聞かれた方も多いかもしれません。
「ファイト!」という曲は、中島みゆき自身がパーソナリティーを務めていた深夜のラジオ番組に投書された手紙が元になった、という説が知られていますが、真相は分かりません。中島みゆき自身は(特に初期の作品には)、難解な表現や言葉使い、比喩表現などが多く、その読解に諸説あることも多いのですが、この曲もしかりで、しかも自らが詩の意味を語ることはありません。それは聞く人に任せる、というスタンスですので、よってここではあくまで私の解釈として書かせていただきます。
あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながら震えている
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる
私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と 突き飛ばした女のうす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は私です
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
震えながら昇ってゆけ
今ではインターネットを通じて、ブログやツイッター、フェイスブックなどで自分の考えや出来事を簡単に、瞬時に発信することが簡単にできますし、それに対する意見や考えを多くの人から聞くこともできます。しかし、この曲が生まれた1980年代にはそんなものも無く、深夜のラジオ番組への投書というのが、一つの手段であった時代です。作者である中島みゆきの深夜番組の元に送られた手紙は、パソコンやワープロも無い時代ですから、きっと直筆の葉書だったことでしょう。それを「とがりながら震えている」と綴っています。僅かな文字数で、そのはがきに託した滲む口惜しさを表す、中島みゆき独特の言葉です。
この詩にはここまでも、これからも、何人もの人と、川を遡上する小魚たちが登場します。人物は、一人のことかもしれませんし、何人もの人のことかもしれません。ただ、逆境の中で打ちひしがれる人の姿を語っています。爪が突き刺さるほど強く握りしめた掌、これ以上の我慢の仕方はあるのでしょうか。反省ではなく妥協と我慢を強いられた少年と、それを囲む視線を「眼が年をとる」と言ってます。何という彼女らしい言葉の使い方でしょう。歳や性別に関係なく、どうしようもない程に追い詰められながらも、耐えることしかできない。本当は自分のせいではないのに、「私の敵は私です」と言う。そう言わなければ、そう思わなければ、そう納得させなければ、次への一歩も進めない、絶望感にある姿を、聞く者に想像させます。
暗い水の流れに打たれながら 魚たち昇ってゆく
光っているのは傷ついて はがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて 魚たち昇ってゆく
勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
震えながら昇ってゆけ
ここで、先のCMで使われた部分が登場します。あのCMが、この悲惨な文字を綴った詩のほんの一部を使って、受験生の応援歌へと変えたことが分かると思います。CMに出てくるような受験、そしてスポーツでの勝敗、それらはある意味で公平な立場で、公平なルールの下で行われます。戦う者たちは対等です。そんな人にかける言葉「ファイト」は、まさに「頑張れ!」でしょう。しかし現実には、この世には云われの無い格差や不平等が存在します。他の人と同じように勉学に励もうとしてもできず、同じ競技の舞台で競おうと思ってもできない、そんな人たちもいるのです。そんな人たちは、普通の人たちと競える「出場通知」を得ることさえも、多大な努力と忍耐を必要としているのです。「海」とは、国境が無く、格差も無い、広くて穏やかで、水平な場所、という意味で持ち出した比喩表現だと解釈しました。
作者である中島みゆき自身がこの詩を唄う時、このサビの部分の「ファイト」という言葉を、意図的に軽々しく唄っています。何故なのでしょうか。その意図こそが、この詩が応援歌などではない証拠だと思います。彼女が発する、空々しい「ファイト」という言葉は、実は嘲笑なのだと、後で分かります。
薄情もんが田舎の町に 後足で砂ばかけるって言われてさ
出ていくならお前の身内も 住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにして やっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京行き
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
震えながら昇ってゆけ
現在ではそんな感は薄らいだかもしれませんが、地方在住者にとって東京とは、首都であり、経済・文化の中心であり、自分の夢を果たせる、いや果たせられるであろうと思われる場所なのです。夢を実現できる場所の象徴なのです。行けば夢が叶うという訳ではありません。それは知っています。行っても、後に多大な努力と忍耐が必要なのは知っています。しかし、その地にたどり着くこそさえも許されない。夢にチャレンジすることさえも許されない、その無念さ。こんな察して余りある立場の人に、単純に「頑張れ!」と言えるでしょうか。この曲のここまでを詠んで、「ファイト」がそんな生易しい掛詞でないことはお分かりになると思います。そして、生易しい掛詞にしている人こそが、実は「闘わない人」であると。
あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
ああ小魚たちの群れキラキラと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
震えながら昇ってゆけ
ファイト! 闘う君の歌を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
震えながら昇ってゆけ
ファイト!
人間は皆、平等ではないのです。この詩で登場する人物たちは、自分のせいではない差別を無言で耐えねばならなかったり、理不尽極まりない境遇を押し付けられた人たちばかりです。それを「運命」という言葉で片付けるには、あまりにも悲しい。けれど、どうすることもできない。同じ土俵で戦える人たちが、きっと羨ましく思えることでしょう。そんな人たちも、現実に居るのです。そして、身を削り、痩せこけ、血を流し、それでも必死に前を向こうとする。そんな人たちに、気軽に「頑張れ!」と言えるでしょうか。もし気軽に口に出せるとしたら、それはその人が「闘わない人」だからです。
ボクシングのリングに上がる2人。これから汗を飛ばし、血を流し、過酷な訓練に耐えた自らの肉体で相手をひれ伏そうとする2人。その結果によってそれから先の自分の未来に、天と地ほどの差が有ることを知っている2人。リング中央で相手を睨む一瞬の沈黙の後、ゴングの鐘の音と共にレフリーが叫びます、「ファイト!」。この詩のタイトルである「ファイト!」とは、この「ファイト!」です。つまり、「頑張れ!」ではなく、「戦闘を開始せよ」「闘え!」なのです。観客席からも、テレビ中継を見ている視聴者からも、応援の言葉「ファイト」が発せられるでしょう。でもそれは「闘わない人」の「ファイト」です。試合がどういう結果に終わっても、「勝ってよかったね」と笑い、「残念だったなあ」と談笑できる人たちです。勝敗が、これから先の自分の人生に何も影響を及ぼさないであろう人の発する「ファイト」を、理不尽で過酷な境遇の立場を負わされた人達に代わって冷笑するかのように、わざと軽々しく唄う理由なのです。ただし、この詩の最後に彼女が発する「ファイト」は「ファイト!」です。でも、それをもってしてもこの詩を、単なる応援歌だとは私には思えません。
人は、自分自身の力ではどうしようもないものに突き当たることがあります。それは大多数ではないかもしれない。でも、そういった絶望感に苛まれる人がいます。何をどう頑張れと、具体的な事を云えない程に、屈辱に耐えねばならない時があります。それを運命や宿命と呼ぶのでしょうか。理不尽極まりない状況を変えようと努力すること、無理やりにでも前を向いて進むことが正しい、と頭で分かっていても、どうしようもなく辛く、その辛さに耐えることだけが精一杯の人がいます。自分のせいじゃない、自分ではどうしようもない、そう思いながらも耐えて、堪えて、身が痩せこけて、血も涙も流しながら、それでも何とか立ち続けている人たちです。そんな人に、安易に「頑張れ!」と言えるでしょうか。そういう言葉を投げかけることが、かえってその人を追い込むことになりはしないでしょうか。この詩の「ファイト!」は、少なくともそんな単純な「頑張れ!」という意味ではないと、私は思います。
限られた文字数の中で、とてつもなく重い命題を綴る。稀有の感性を持った中島みゆき渾身の名作の一つだと、私は思います。
(私の敬愛する中島みゆきさんですが、上記の文中では敬称を省かせていただきました。お許しください)