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「さよなら銀河鉄道999」 [本・映画・アニメ・詩歌]

「銀河鉄道999」は、松本零士原作によるマンガで、テレビアニメとしても放送され、劇場用映画としても作られた作品ですから、ご存知の方も多いと思います。雑誌マンガとしては1977年から1981年にかけて連載された長編ですし、テレビアニメとしても1978年9月14日から1981年4月2日に全113話+総集編が放映されましたから、特に今の40代以上の方には馴染み深いと思います。「宇宙戦艦ヤマト」と共に、当時の松本零士氏ブームの一翼を担った代表的作品なので、内容の詳細は省かせていただきますが、今回ここで取り上げるのは、劇場版第二作「さよなら銀河鉄道999」です。

さよなら銀河鉄道999.jpg

マンガ及びそれをトレースする形のテレビアニメは、この作品が本来持つ社会性や哲学性(格差社会や人の生死、大人の愚かさや孤独、弱さなど)を帯びた作品で、特に30分枠のテレビアニメとしては、アイドル性やアクションシーンが少なく、SFアニメとしてはちょっと異質な感じでした。毎回最後に、高木均氏のナレーションというか朗読というか、作品の本質に迫る語りがあって、それがこの作品の特徴でもあり象徴みたいに感じていました。
テレビアニメとしての視聴率も、決して悪くなかったようで、よって劇場版が作成されるに至ったのは、自然な成り行きだったことでしょう。ただ、劇場作品にするには、2時間前後という枠に収めねばならず、単体作品としてのまとまりと集客を考えれば、劇場版「銀河鉄道999」が、冒険活劇的な部分を重視した作りになってしまったのは、しかたないことかもしれません。それでも当時のアニメ映画として、129分というのは、かなり長いですね。興行収入は予想を超えたようで、故に第二作が作られたようですが、私的にはこの「さよなら 銀河鉄道999」の方が印象が強いのです。
ちなみにこの作品は「さらば銀河鉄道999」ではありません。「さよなら銀河鉄道999」です。同じ松本零士作品の宇宙戦艦ヤマトでは、劇場版第二作は「さらば」でしたが、ここで何故「さよなら」なのか。僅かな言葉のニュアンスの違いが、両作品の根底に流れる差異を表しているのでしょう。

永遠の命、機械の体をタダで手に入れられるという星を目指し、メーテルという謎の美女と共に旅立った主人公、星野鉄郎が、旅の途中で出会った出来事や人々によって、限りある命こそが尊いと気付き、その星を破壊したまでが第一作。第二作目では、再度メーテルの呼びかけに応じて999に乗り、未だ存在する機械化母星に立ち向かうという話ですが、その活劇談は130分という上映時間の9割ほどで終了してしまいます。残り最後の13分間が、実は私の中でこの作品を、上位ランクさせている所以のところです。

戦い終わり、再度地球へ戻ろうとする鉄郎の姿を見て、ハーロック(松本作品ではお馴染みですね)がつぶやきます。

「鉄郎、たとえ父と志は違っても、それを乗り越えて、若者が未来を創るのだ
親から子へ、子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いて行く
それが本当の永遠の命だと、俺は信じる」


この第二作目では、敵役としてファウストという機械化人が登場します。それが実は、鉄郎の父親だったわけですが、何だか有りがちな設定だよね、と最初はガッカリしたものです。ですがよく見返してみると、第一作では、限りある命だからこそ、人はその人生を輝かせられる、ということを説きました。この第二作で同じテーマを引きずったのでは凡作となってしまうので、それにプラスして「父と子」を重要なモチーフに使っています。映画冒頭の999発車のシーンで、老パルチザンが鉄郎のことを倅(せがれ)と呼び、命と引き換えに旅立ちを手伝います。たとえ血縁ではなくとも、未来に向かって旅立つ息子の礎になる姿を、まずここでしっかり描かれています。そして、終わり近くのこのハーロックの言葉を借りて、今作のテーマである「永遠の命・限りある命」を説きたかったわけです。その為には、どうしても父と子が必要だったのです。この一番大事なテーマに対する結論を、主人公の鉄郎でもメーテルでもなく、あえて脇役のハーロックに言わせるところが、軽薄な三流アニメと違うところですね。








さて、ここからは鉄郎とメーテルの別れのシーンになります。これも脇役であるエメラルダスが言います。

「メーテル、あなたは鉄郎と一緒に行くことはできない」

母プロメシュームの呪縛から溶けたメーテルは、鉄郎と共に行くこともできた訳です。それ故、メーテル自身にも迷いが有ったはずで、それはエメラルダスのこの言葉の後のメーテルの表情からも窺い知れます。そして彼女のそんな迷いを感じたからこそ、敢えてエメラルダスはこの言葉を言ったのだと思います。躊躇なく真実をズバッと突く、これは一見して冷徹な彼女(実はメーテルの姉)にしか言えない言葉で、故に、作者がこの場にエメラルダスを置いた理由でもあるのです。
メーテルとの別離を突き付けられた鉄郎は叫びます、「メーテル!」。第一作の最後でも、999で去っていくメーテルに向かって、鉄郎は同じように叫びます。けれど決定的に違うのは、叫んだ後の鉄郎の表情です。第一作では、年上の女性に対する憧れと別れの辛さが、鉄郎に感じられます。しかしこの第二作では違います。そこに作者は、鉄郎の成長の証と、この旅が哲郎にとって青春の想い出となったことを示したかったのだと思います。最後のクレジットは、このような文字によって綴られます。

・・・そして 少年は大人になる

しかも今は亡き、城達也さんの哀愁を込めたナレーションは、何とも心に響きます。

今一度、万感の想いを込めて、汽笛が鳴る
今一度、万感の想いを込めて、汽車が行く


銀河鉄道999がなぜSLなのか、最後のこのセルフの為なんですね。SFアニメでありながらも、この作品の根底に流れる抒情的雰囲気を保つには、やはりSLでなければならなかったのでしょう。





そしてその後、エンディングに奏でられる、メアリー・マッグレガーの「SAYONARA」。英詩なのに「さようなら」だけを、たどたどしい日本語で唄わせているところが、実にその言葉の哀愁を表していて、心に染み入ります。大人になっていく鉄郎と年上の女性メーテルとの別れを、否が上でも切々と奏でてくれます。

少年の冒険活劇のスタイルをとりながら、限られた上映時間なのに、一割以上の13分間を使ってでも、最後にメインテーマに対する回答と、この映画の主題である「少年の成長と別離」を見事に綴っている、制作者渾身のエンディングだと思いました。1981年公開ですから、もう30年以上前のアニメなので、作画的には現在のものと比べると見劣りします。が、これもまた手元に残して置きたい作品として、ここに紹介させていただきます。






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Cimarron

ジュニアユースさん
私もこの時期、松本零士に傾倒していて過去のコミック本を買いあさっていました。
「戦場まんがシリーズー」から「ミライザーバン」、「セクサロイド」、「インセクト」、「ガンフロンティア」、「大草原の小さな四畳半」、「元祖大四畳半大物語」、「男おいどん 」、その他・・・・「トラジマのミーめ」まで持っています。
まさしく「血わき肉おどる」世界でした。
キャラクターとしては「トチロー」が一番親近感がありますかね。
by Cimarron (2012-11-30 06:19) 

ジュニアユース

Cimarronさん、こんにちは。
「男おいどん」は私が中学生ぐらいの時だったでしょうか、少年マガジンに連載されていて、毎週読んでいたことを
憶えています。東京での下宿生活って、あんなのかな~、なんて減滅したような憧れたような気が・・・
ザ・コックピットシリーズは、今でも単行本が私の書棚に並んでます。懐かしいですね。

by ジュニアユース (2012-12-01 20:11) 

おおぬま ゆうじ

999は小学校4年の時に、映画をやっていたのを記憶してます
すごく好きでTVではずっと見てましたし、超合金もすごく欲しかった・・・(小4でちょっと買うには恥ずかしかった)
小4と記憶が残っているのは、まさにこのメーテルの絵を自由研究で書いて、何かしらの賞をもらったので
よく覚えています
ただ、当時は内容をちゃんと理解しては見ていなくて、それでも変わったアニメだなぁという印象は
かなりインパクト強く脳裏に焼き付いてます
それにしても、この動画の哲郎、すごく大人になってますね
こんなに変化していましたっけ?(笑)
そこら辺の記憶が曖昧(^_^;)
ゴダイゴの曲、テープ伸びるくらい聞いてました
EXILEがカバーして「懐かし~!」って叫んでましたねぇ
うんうん、懐かしいです
むしろ、ヤマトよりこっちの方が個人的には好きだったなぁ~
by おおぬま ゆうじ (2012-12-06 17:16) 

ジュニアユース

おおぬまさま、こんにちは。
主人公の星野鉄郎は、テレビ版では設定年齢が10歳でしたが、劇場版では15歳へ引き上げられた、という話を
読んだことがあります。松本零作品というより、東映映画らしい鉄郎には賛否両論あったようですが。
ちなみに私、ヤマトも第一作は好きです。

by ジュニアユース (2012-12-06 22:53)