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月のカケラ(下弦の月) [物語]

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銀行のATMにキャッシュカードを差し込んで暗証番号を入力、残高照会のボタンを押す。「1025円」、その金額自体は数日前から分かっていたことなので、特別驚きもしない。出てきた千円札一枚を、後ろに並んでいるOLに見られないよう、サッと空っぽの財布に押し込んで、そそくさと表に出た。いくら空腹だったとはいえ、足取りが軽かろうはずもない。それでも行き先は大学より他に無い。街路樹の銀杏はすっかり黄色い葉を落としていたから、いつまでもシャツ姿では恥ずかしいな、とも思ったが、さて他に着る適当なものがあっただろうか、と思いながら人波の流れに続いた。
講義が行われる教室に入れば、既に半分ほど席は埋まっていた。馴染みの顔も何人かいたので、簡単な言葉を交わして、いつものように一番端の席に座った。隣には誰も座って欲しくなかったから。空腹でお腹がグーっと鳴る、それは我慢しようにも避けられない生理なのだ。それを聞かれたくないために、いつも、どんな講義でも、離れた席を探していた。そんな俺を見つけたのか、見知った二人の女子が駆け寄ってきた。
「サークル辞めたんだって」
興味深そうに聞く。その理由やサークルに対するネガティブな感想を聞きたかったに違いないことは分かっていた。
「ああ、どうも合わなくてさ」
簡単に答えた。聞いた方はもう少し面白い話を引き出したかったようだが、それ以上のことを言わないことを悟ると、儀礼的な挨拶は済ませた、とばかりに去っていった。引き留めるような言葉が皆無だったところをみると、僕の退部は既に予定されたことだったのだろう。
ここから400km程離れた田舎で生まれ育ち、でも早くこの家を出たいと望んで、この大学に通い始めて半年余り。押し付けられた教科書と問題集に埋もれた高校生活と違い、大学は自分の望むもの、興味があるものを好きなだけ学べる所だと思っていた。そして「キャンパスライフ」という田舎者の想像を華やかにするものを謳歌するためには、サークルという同好会に属した方が良い、と高校の先輩から聞かされていた。なので、特別な考えも無く、当時流行っていたテニスサークルに入ることにした。しかし、テニスをするにはテニスコートが必要。大学内にあるテニスコートは体育会テニス部専用なので、同好会サークルは別にコートを探すしかないが、この地でそれは容易なことではないことを、入った後に知った。そのサークルは、大学から電車とバスを乗り継いだ所に、週三回二面のコートを確保していた。部費は毎月5000円。勿論、その往復の交通費は個人持ち。しかも毎回、練習後には喫茶店でミーティングと称する、ただのお喋り会に参加しなければならない。何が面白いのだろう、と思いながらも新入生の僕は、いかにも興味深そうな顔を作って末席に居た。よく見れば、ここに居るのは自宅通学者か、独り住まいしていても東京周辺県の者が殆どで、僕のような田舎から出てきている者は僅かなのだ。練習後だから食べ物を注文する者が多かったが、俺はブレンドコーヒー、夏だけはソーダ水。それがその店で一番安いメニューだったから。「いつもそればかりね」と尋ねる声もあったが、「好きだから」「田舎でいつもコレを飲んでいたから」などと適当なことを言ったが、本当の理由はとっくに知られていたに違いない。それだけならまだ良かった。月に一度は適当な理由で飲み会が行われ、完全割り勘制なので、一回に数千円が飛んだ。酒など飲めないのに。
この大都会・東京に住む大学生としては、真面目と言われれば、確かにそうだったのかもしれない。ただ、旧態依然とした父親像を標榜する家長が居座る重苦しい家庭から解放され、勉学もそれ以外のことも含めて、自由に行動できる時間が欲しかった。また、自身がまだ未熟な事は痛感していたし、社会へ出る方向性を探るのが、この大学四年間だと思っていたから、この大都会へ赴いた。それに、この大学に合格する為にどれだけ努力したか、どれだけ多くの事を我慢したか、それも加えれば、大学に通わない、講義に出ない、という考えは端から無かった。しかし一人での生活を始めれば、予想以上にお金という「物の価値」が痛切に圧し掛かってきた。親は毎月仕送りを銀行口座に送ってくれた。直ぐにそれを引き出して、六畳一間のアパートの家賃と電気代、水道代を支払った。ガスは使わないだろうから元から無い。電話も無い。それに加えて、大学のある駅までの電車の定期代を一か月分買った。定期も数か月分買えば幾らか割安なのだが、そんな余裕は無かった。それで、とりあえず居る場所と大学に通える手段だけは確保した。料金滞納などもっての外。親から「他人に迷惑をかけるな」を叩き込まれた僕が、最低限しなければならないことだった。しかし、そうすると残った額は三万円程。その殆どが食費に費やされるのだが、一か月で三万円だから、一日千円未満で済ませなければならない。単純な引き算と割り算だ。
近所の喫茶店で、平日はモーニングサービスとして、コーヒーにトーストとゆで卵、そしてサラダを付けてくれることを知ってからは、朝はその店でお世話になった。他はともかく、新鮮な生野菜のサラダが嬉しかった。そして店には新聞や雑誌が置いてあるので、それらを片っ端から読み漁った。テレビも無い部屋の住人には、そうでもしないと世の中の情報など入ってこない。それでも誰にも邪魔されず、誰にも遠慮せずに過ごせる、その小一時間が唯一の楽しみだった。昼食は食べたり食べなかったり。夕食はさすがに食べないと空腹で寝られないことが多かったので、これは人並みに食べたかった。一番安かったのは吉野家の牛丼並盛300円なのだが、毎日そればかりという訳にはいかず。思いついたのが学食。夕方六時まで開いている学食なら、十数種のメニューがリーズナブルに食べられる。午後からの授業が無い日でも、図書館などで時間を潰して夕食にありついた。あまり早く食べたのでは、寝る前に空腹になるのは分かっていたから、必ず学食の閉店寸前に入ることにしていた。テレビの無い部屋の夜は、意外にも時間の進みが遅いものだ。
そうやって食費を削っても、見栄を張る気も無いので、格別安いもので良いから、季節に合わせた洋服は欲しかったし、風呂の無い部屋だったから銭湯に行かねばならない。この昭和年代の終わり頃の銭湯代は220円、毎日入れば6600円かかる。サークルの練習後や真夏だと毎日体を洗いたいので、食費にその額を足し算すれば、一日1000円を超える。それに加えて、あのサークルにかかる費用だ。毎月の収支は赤字、上京するときに持ってきた貯金はアッと言う間に底をついた。夢見たキャンパスライフというものが、今の自分が似つかわしくないものであることを嫌でも知らされた。そこで思い切ってサークルを辞めることにした。三年生の部長にそう告げると、意外にもあっさりと認められた。部長も多分予想していたことだろう。けれど、容赦は無かった。
「先月も払ってないし、今月分も合わせて部費一万円は払ってね」
反論の余地なく、今月末には必ず払います、とだけ言って去った。しかしこれで、たとえ翌月は更に苦しくなろうとも、その後の不本意な出費を切れる。元々金銭的な余力が無い自分が、余力のある人達と、余裕有る活動をしようとしたことが間違いだったのだ。今になって気付くのは遅いのかもしれないが、翌々月からはその間違いを是正した生活を送れるのだ、と納得するしかなかった。
もちろん、金を借りるということも考えた。しかし、誰から借りられるというのだ。一人でこの東京にやって来ても半年もすれば、友人と呼べるような知人も数人できたが、額はともかく、借金をお願いできるような深く長い付き合いの友でもない。逆にそんなことを言えば、僕から離れていくことは自明だった。親戚・縁者もこの地には居ない。サラ金と呼ばれるようなものもあったが、返せる見込みの無い以上、自分で自分の首を絞めるようなものだと分かっていた。今更ながら、幼少期から「他人に迷惑をかけるな」と叩き込まれたその言葉が、重くのしかかっていた。サラ金であろうが闇金であろうが、他人には違いないのだから。
もちろん、仕送りの増額を申し出たこともあった。しかし、昭和一桁生まれの父は頑として首を縦に振らなかった。金を増やせとは遊びたいという事だろう、増やせば遊びに使うだろう、東京とはそういう所だ、との固定観念を持っていたらしい。いっそ、「東京の私立大学の高額な入学金と学費を払っているのだから、これ以上は出せない」と言ってくれた方がスッキリ納得できたかもしれないが、高慢な父にそれは期待できない。僕としても、こんな親元から抜け出したいが為にここに一人でやって来たのだ。もうこれ以上説明し、頭を下げるのは嫌だった。ただ、それを見かねたのだろう母が、コッソリとその月の仕送り額を一万円増額してくれた。翌月には元通りの金額に戻ったのだが、これで冬用の服が買える、と思った。でも買えたのは今着ているシャツとズボン、それと駅前の安売り店で買った1980円のスニーカーだけ。冬が近づけば、それらと夏服の重ね着で我慢するにも限界が見えていた。
現代に子供達にとっては、お年玉で数万円を何箇所から貰える時代なのだから、千円や百円は気軽に使えるような金額だろう。振り返ってその時の僕は、バブル景気真っ只中の東京に居る一日千円未満という生活は、あのサークルを辞めてもさほど変わらない。自炊すればもう少し安く食べていけるかもしれない、との考えも浮かんだが、冷蔵庫も調理器具も無く、それらを買い揃える金も無ければ、それはただの机上の空論。では、出ていく金が減らせないのなら、入ってくる金を増やせばイイじゃないか、との考えが浮かぶ。幸いサークルを辞めたことで、少しばかり時間に余裕が出来た。これを利用してアルバイトをして稼ごう、との考えが向いたのは自然なことだろう。まだ求職専門誌が巷に溢れる前だったので、まずは大学の総務課に行ってみた。そこで見つけたのが、割と時給の良いアルバイト。電話すれば、明日からでも来いと言う。その明日は日曜日で特に何もすることが無いので、指定された場所に行ってみた。ヘルメットと作業服を渡された。仕事内容は、二~三人で車に乗り、首都高速道路の看板の清掃やトンネル内の切れた照明の取り換え(今ではLEDだが当時はまだ蛍光管)だった。すぐ横を猛スピードで走る車の脇での作業なので、一瞬危険を感じたこともあったが、一日目としては無難に終えられたと思う。ただ慣れない仕事で体はクタクタで、その日は暑かったので汗みどろ。帰宅したら直ぐに銭湯に行ってサッパリしたかった。頭からシャワーを浴びると、足元に真っ黒い水が流れ出てきたのには驚いた。いくらヘルメットを被っていても、髪の毛は自動車の排煙を吸い込み、顔や手足など露出している部分も真っ黒、鼻や耳の穴まで黒かった。今のような排ガス規制が無い時代なのだ。いくら時給が高くても、この仕事を続ければ体に害が及ぶことは必定と思うと、続ける意欲が急速に失せた。翌日退社の電話を掛けた。所長はあっさり受け付けてくれたが、次の言葉は加えられた。
「昨日の日当は制服のクリーニング代と差し引きゼロだからね」
次に行ったのが、募集広告が張られたファーストフード店。自室と大学との中間に有って通いやすく、時給はこの前のものよりグッと安かったが、食べ物を扱うのだから体に悪い筈は無かろうと思ったし、授業の日程を考慮して勤務シフトを組んでくれるというので、これは長く働けるかな、と思った。仕事内容は調理補助。確かに先輩方が仕事の手順を教えてくれるのだが、店が忙しいせいか早口で、よく聞き取れない。でもやらされるので、見よう見真似でやれば失敗。途端に罵声を浴びる。「さっきも言ったでしょ」「何度言ったら覚えるんだ、ホントに大学生か」「邪魔だ、どけ」「ボーっとしてるなら給料は無いぞ」等々。それらの罵声も、客の居る席には決して届かないよう音量調整してあるので、たぶん慣れた言い回しだったのだろう。やっと作った料理をわざと床に落とされたことも何度かあった。今で言えばブラック企業という事になるだろうが、そんな罵声といじめを浴びながらの数時間を我慢して四日間通った。だが五日目に行くときに、駅で急に腹痛に襲われ、慌ててトイレに駆け込んだ。そこで上から下から、体の中のものを全て吐き出してしまった。吐き出したものを見る勇気も無く、すぐに水で流したのだが、まだまだ出てきた。生まれて初めて、精神と肉体が悲鳴をあげた瞬間だった。フラフラになりながら、やっとトイレから脱出できたのは小一時間経った頃だろうか。今から店に向かっても大幅な遅刻。きっといつも以上に怒りと愚痴と嫌みを散々に浴びせられることを想像できる以上、店に向かう意欲も勇気も失った。駅の公衆電話から「体調が良くないので」とだけ伝えて、自室に戻った。六畳一間の万年床に横になれば、何だか体がだるく、熱っぽい。体温計が無いので何度か分からないが、その晩は高熱にうなされて一睡もできなかった。もちろん、薬など無い。こんな時こそ病院へ行って適切な処置をすべきなのだが、いくら保険証を持っていても、治療はタダではない。医者と言う所はお金の有る人が行くところで、僕などが行ったら、その後の生活が成りゆかない。だから、何も食べず、水道の水だけを飲み、薄い布団に包まって寝ている他に方法が無かった。それでも三日後には這い出るように布団を出て、何とか外に出られるまで回復できたのだから、それは若さ故のことだろう。でも四日間も欠勤してしまったのも事実。恐る恐るその店に電話してみた。
「ああ、もう代わりの人が来ているから無理して来なくていいよ」
要するに、クビだな、と思った。
「四日間の日当から制服のクリーニング代を引いても、少し残るだろうから、取りに来てもいいよ。ただし来月だけど」
しかし、あの店を精神的にも肉体的にも拒絶している僕には、そうする勇気は無かった。
それら二か所のアルバイトを経験して、もう三つ目のアルバイトを探す気が生まれてこなかった。運が悪かっただけ、求人の探し方が下手だっただけ、確かにそうなのかもしれない。けれどその時には、もう能動的思考と呼べるようなものを失っていた。我慢すればいい、それだけだった。二十年近く生きてきて、貧困というものに無知、無関心だった報いなのかもしれない。確かに、お金よりも大切なものは有る、お金よりも価値あるものは有る。でも、「人はお金が無ければ生きていけない」、これは絶対的な真実なのだ。




続き・・・


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