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月のカケラ(上弦の月) [物語]

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それから、二人の共同生活が始まった。彼女はいつも食材を抱かえて来ると、冷蔵庫の隙間を埋めていった。その手料理は、毎回文句の付けようもないほど美味かったが、たとえ彼女が居なくても、冷蔵庫に満たされた冷凍食品や調理済み食材、飲み物、それに加えて電子レンジが有れば、一日中食べる事に苦労することは無くなった。毎日食べられる、水道の水で腹を満たさなくてもよい、それがどんなに幸せなことか、痛切に感じさせられた。そして、食欲に対する不安が払拭されれば、人は正常な精神を保つことができ、活動することができるのだ、と知らされた。
そんな彼女は、毎日必ず帰って来るわけではなかった。二、三日帰ってこない旨のメモが残されていることもあった。最初は水商売の人かな、とも思ったが、彼女と昼間に会うことは無く、朝起きれば必ず居ない、来る時は夕方か夜であることを考えれば、どうもそうではないらしい。それとなく彼女に聞いてみても、はぐらかされるか、「それは秘密よ」と言われるだけで、しつこく聞けば怒られそうなので、止めておいた。僕にも知識や用心が無い訳ではなく、いつか「俺の女に手を出しやがって!」と怖い人に怒鳴り込まれるのではないか、悪い道へ強要されるのではないか、との懸念は勿論有ったが、それを口に出して言う勇気は無かった。結局、彼女のことは殆ど知らないままでも、どんどん月日が流れていけば、僕のそんな猜疑心もいつしか薄れていった。
ただやはり、同棲生活ではなく共同生活だった。絶世の美人、とか、芸能人並み、という程ではないにしても、彼女は間違いなく美人の範疇にあり、それに加えスラリとした肢体は、僕の男としての情を引き寄せていたし、肉体的な交わりも有った。しかし、そんな僕の愛情が傾いていくことを知ってか知らずか、そんな時は帰って来なかったり、帰って来ても深夜で、会話無く寝てしまったりして、彼女と僕の心理的な距離は一定の間隔を保ったまま。なので、この関係を恋人同士とは言い切れず、やはり共同生活と言うのが自然なのだろう。それが歯がゆく感じたこともあったが、それまでの悲惨な生活から抜け出せたことだけで、僕は十分「幸せ」を感じられていた。
その年も残り一か月となった夕方、珍しく手ぶらで彼女、望月弓子さんが帰ってきた。
「もう冷蔵庫のものが少ないでしょ。今日はたくさん買いたいから、荷物運びに一緒に来て」
この小さな部屋の玄関は、既に彼女のパンプス、ハイヒールなどで一杯になっていたが、それを跨いで外に出た。陽が落ちれば、既に冬の空気が感じられる季節となっていた。駅前のスーパーマーケットへ並んで歩いていると、ふと彼女が立ち止まった。僕の頭の先から足の先までじっくり見回し、「ダサイ」と一言。安物の長袖シャツを重ね着した姿は、そう言われれば反論の余地無し。ヒールの高いブーツを履いていたとはいえ、視線が僕と同じ高さと言うのは、女性としては高身長だろう。そんな颯爽とした大人の女性の横を歩くには、あまりに貧相な格好なのは明らかだった。
「やめた。今日は外食にしましょう。それを何とかしないとね」
二人は電車に乗り、大きなターミナル駅に降り立った。
「男性服の店って、あまり知らないから」
この時間でも駅ビルの中の店は開いていた。そのフロアーを見回しながら、ツカツカと歩く彼女の後に続く。
「これがイイんじゃない」
彼女が指差した店頭のマネキンが来ていたのは、確かに派手過ぎず地味過ぎず、でもちょっと高級感のある衣装だった。僕の返答を待たずに店員を呼ぶと、彼女は試着したいと告げた。
「このセーターですか?」
「いえ、これ全部。スラックスもね」
店員はそのマネキンを裸にすると、僕を試着室に誘導する。下着以外全て脱ぎ、その衣服を全て着て、試着室のカーテンを開ければ、腕組みをした彼女にまた、上から下まで眺められた。
「なかなか似合っているわよ」
満足気にそう言うと、傍らの店員に、これ全て買うと告げる。その潔さに押されて、それらを脱ごうと試着室に戻ろうとする僕。
「これ全部着ていきますから、タグだけ外してください」
店員はそれらのタグを全て外し、脱いだ安物の服をきれいに畳んで袋に入れてくれた。そうこうしている間に彼女は支払いを済ませたみたいで、改めて僕の姿を見て問う。
「聞くけど、その靴に何か思い入れでもあるの?」
駅前の安売り店で1980円で買ったスニーカーだ。もう随分長く履いて汚れ放題なので、この服に合わないことは間違いない。否と言う返事を持って、彼女は同じフロアーに有る靴店に向かう。グルっと店内を一周した彼女は、カジュアルだけど立派な革靴を持ってきた。なぜ僕の靴のサイズを知っているのか不思議だったが、その靴はサイズも先ほどの服にもピッタリだった。コレもこのまま履いて帰る旨を店員に告げ、そしてまた歩き出した彼女の後を、それまで着ていた服などの入った袋を持って追えば、ある店の前に着いた。
「すみませ~ん、コレください」
既に店員に告げているではないか。彼女が指さしていたのは、ダウンのハーフコートだった。今ではダウンなど珍しくもないが、当時はまだ高価で、大学生の持ち物としては上位に位置するもの。しかも、僕でも知っている有名メーカーのものだった。高価な中身を連想される高級そうな袋に入れられた品を受け取れば、たった小一時間程で、僕はちょっとリッチな家の大学生になっていた。それを彼女は随分とご機嫌そうに眺める。しかし彼女が支払った額は、あの部屋の一か月の家賃を軽く超えているだろう。食品は生きるためのもの、二人で食べるためのものと考えれば、まだ納得できる。でもこれはあまりに頼り過ぎだ。買って貰ったものには大いに満足しているが、これは直ぐには無理でも、少しづつでもお返ししなければならない、そんな考えが過ったが、彼女には全てが見通し済みのようだ。
「これは君の為じゃない、私の為なの。私の横を歩く人になってもらう為なの。分かる?」
「それでも、流石にこれは・・・」と言いかけたところで、彼女はにっこり笑って僕の背中をポンと押した。
「さあ、今日は何を食べようか。気分はイタリアンね」
最上階のレストラン街へ向かうエレベーターに向かって歩き始めた。

それからも彼女は、「昔の男が残していった服だけど、クリーニングしたから着てみる?」と何着か持って来ることがあった。しかし、どう見ても一度洗った服のようには思えなかった。もしかすると、僕は着せ替え人形で、彼女好みに変えていくのを楽しんでいるかのようにも思えてきた。ただ、確実に僕は変わっていった。痩せこけた顔は元に戻り、服装も今風の大学生の水準に達していた。大学内を歩く姿にオドオドしたような劣等感に近いものは無く、それを見た以前のサークルの女子が近づいてきた。
「最近何か良いことでもあったの?」
「彼女が出来たんじゃない?」
好奇心の塊の言葉を投げかけられたが、真実を言うべきではないことは分かっていた。ただちょっとだけ、優越感みたいなものが湧いたことは確かだった。
年の瀬が意識されるようになると、彼女は週に二、三日しか帰って来なくなっていた。もちろん毎回、食材片手に来てくれるので、食べる事に苦労しないのは変わらないが、何か不安感みたいなものが少し持ち上がってきた。それを払拭しようと、僕は彼女にクリスマスプレゼントを用意することにした。サークルも辞め、切り詰めねばならなかった食費も僅かしか掛からないとなれば、その月の収支は少しだけ黒字になっていたから。しかし女性、しかも年上の大人の女性に渡すものなど見当もつかなかった。毎日、彼女と行った駅ビルの店舗をウロウロして絞り出した答えが、赤いマフラーだった。単一色ではない、僅かに斜めにラインの入った赤いマフラーを、プレゼント用に梱包してもらった。これでイヴの夜に帰って来なければ困るのだが、「イヴの日はケーキを買ってくるからね」の言葉を信じて待つことにした。
その夜、彼女はなかなか来なかった。時計が午前0時を示す数分前に、白い吐息と少しの酒の匂い、でもケーキの箱をしっかり持って上がり込んできた。
「ごめんねぇ、遅くなって」
「いえ、イヴの夜に間に合ってよかった」
リボンの掛かった箱を手渡すと、彼女の眼がキラキラと輝き、嬉々とした表情で箱を開けた。
「うわ~、ステキ!」
部屋に入ってまだコートを脱いでいない彼女は、その上から赤いマフラーを巻いた。それを見て、やっぱりコレにして良かった、と思ったし、こんな満面の笑みの彼女を見るのは初めてだったかもしれない。
「ありがとーう!」
彼女に抱きしめられ、赤い唇が僕の頬に盛大に跡を付けてくれた。
「今までお世話になった、ホンのささやかですけど、お礼です」
「ありがとう」
六畳間で、立ったまま向き合う二人。
「君も男らしくなったね」
まじまじと僕の顔を見つめて告げる彼女。一瞬、いや少しの沈黙。いつも見ている彼女なのに、今夜は慈愛に満ちた眼をしていた。そして彼女はそっと、いつもより長く、もう一度僕を抱きしめた。
「さて、ケーキを食べようか」
コートを脱ぎながらそう言うと、直径20cm程の丸いケーキが小さなテーブルの上に出された。
「私ね、こんな丸いケーキを一人分づつ切って食べるんじゃなくて、二人で突っつきなが食べるのが好きなの」
その言葉通り、二人がそれぞれフォークをもって、丸いケーキを両方向から崩すように食べていく。そして、ペタンとケーキの最後の山が倒れて、そこで二つのフォークが止まった。
「お正月はどうしようか。人込みは嫌だろうから、どこか小さな神社にでも初詣に行こうか?」
機嫌良く言ったつもりだったが、彼女は一瞬にして真顔になった。
「ダメよ」
「ええっ、どうして?」
「ダメ!」
部屋の気温が一気に下がったような気がした。
「あなたには帰る故郷がある。待っている両親もいる。お正月は帰らなければダメ」
その言葉には、妙に迫力があった。NOと言わせない重みがあった。逆らえない眼が光っていた。
「う、うん、そうだね」
僕はそれだけ言うのが精一杯だった。それを聞くと彼女は、持ってきた袋からワインのボトルを取り出した。
「まあ、クリスマスだからね。ちょっとだけ付き合ってよ」
二つのグラスにワインが注がれ、僕は酔い過ぎないように少しづつ口に含んだが、彼女は豪快に飲んだ。そうして様々の事を語らいながら、長くて熱い夜を過ごした。




続き・・・


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